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大学時報 No.319 Mar.2008(P.114-119)「日本私立大学連盟」発行
わが大学史の一場面 ― 日本の近代化と大学の歴史
酒井 シヅ 順天堂大学客員教授
仁と不断前進をモットーに170年

 本年、順天堂大学は創立170年を迎える。創立者佐藤泰然が江戸薬研堀に蘭方医学の塾、和田塾を開いた天保9(1838)年を創立の年として数えて、今年は170年にあたるのである。当時はシーボルト事件から10年目、幕府の蘭学への弾圧が極めて強まっていた。創業の翌天保10年に、蘭学者渡辺崋山、高野長英らが捕縛された蛮社の獄が起こった。蘭学者佐藤泰然も幕府の町方のブラックリストに載っていた。
 ところで、波乱に満ちた170年の歴史は大きく三期に分かれる。一期は江戸時代から明治初期の順天堂塾時代、二期は明治・大正・昭和初期の順天堂医院時代、三期は昭和19(1944)年、順天堂医学専門学校の開校から現在の順天堂大学までである。

一 蘭学塾時代
 天保9年、3年間の長崎遊学を終えて江戸に帰った佐藤泰然は、長崎から同行した弟子と共に薬研堀に和田塾を開いた。泰然はそのころ、和田姓を名乗っていたからである。弟子はのちに蘭学界で活躍した林洞海、三宅艮斎らであった。医業は盛業を極めた。しかし、5年後、江戸を高弟に任せて佐倉藩(現在の千葉県)の求めに応じて移住している。
 このとき和田から佐藤に姓を改めた泰然は、天保14年10月に「順天堂」を佐倉本町に開業した。そのとき順天堂と命名した扁額が現存する。幕末に全国に名声が及んだ佐倉順天堂の幕開けである。
 佐倉藩は、藩主堀田正睦が老中として開国に重要な役割を果たしていたが、西洋堀田とあだ名がつくほど、西洋へ強い関心を抱いていた。泰然は藩の学問所で蘭学・医学を教えると同時に、堀田正睦のブレーンの一人になったのであった。
 残念なことに、泰然の佐倉順天堂には門人帳がない。恬淡とした性格の泰然は門人帳を作らなかったのだろう。しかし、佐倉順天堂に学んだという医師が全国いたる所にいる。また、泰然には訳著が多かった。手術記録もある。これらから泰然が当代まれな西洋外科医であったことがわかる。
 泰然を継いだ二代目堂主佐藤尚中は泰然の高弟であった。しかし、泰然の次男は松本良順である。良順の活躍は、吉村昭等の小説でもよく知られるが、泰然は実子は他家に出して、優れた弟子を後嗣に選んだのであった。その後、順天堂では実子を継承者としない不文律がある。
 尚中ははじめ山口舜海を名乗り、養嗣子となって佐藤舜海と言ったが、明治になって名を尚中と改めた。舜海は蘭書を読んで前人未踏の手術も果敢に行い、優れた外科医であったことが知られる。だが、万延元(1860)年に長崎に留学して、ポンペから医学を学んだことで、舜海の医学は革命的に変わった。そこで教えていた近代医学は日本の蘭学と全く違っていた。杉田玄白以降の蘭学はシーボルト来日によって大いに発展したが、しょせん、欧州の伝統医学の域であった。1850年以降の西洋近代医学は科学的医学に変わっていた。その成果がポンペによってもたらされた。ポンペ滞在5年の間に初めて近代医学教育が実施されたが、舜海はその洗礼を受けて、佐倉に戻ると早速、佐倉の医学改革を実施した。順天堂での教育だけでなく、佐倉の医療制度の改革も行った。しかし残念なことに、その効果を見る間もなく舜海は新政府に召し出され、廃藩置県で藩は力を失った。

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