学校法人順天堂 順天堂大学理事長・学長室

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トピックス
大学時報 No.319 Mar.2008(P.114-119)「日本私立大学連盟」発行
わが大学史の一場面 ― 日本の近代化と大学の歴史
酒井 シヅ 順天堂大学客員教授
仁と不断前進をモットーに170年

四 順天堂大学時代
 昭和16(1941)年、震災以後、活動が停滞していた順天堂医事研究会に東俊郎の内科を付属させて、財団法人順天堂医事研究会を設立した。戦局は悪化の一途をたどっていた時代、政府は軍医促成のために医学校を設置するという情報を得た達次郎は昭和17年、財団法人順天堂医事研究会と順天堂医院を母体に、順天堂医科大学設立申請を文部省に行った。昭和18年12月、文部省は、医科大学設立は認めないが医学専門学校としてなら認可する条件を出し、それを受けて順天堂医学専門学校が誕生した。そのとき政府は、軍医促成と銃後の女医養成のために各県に医学専門学校を設置したが、私立医学専門学校として認可を受けたのは順天堂だけであった。
 昭和19年4月、順天堂医学専門学校が開校した。順天堂は江戸時代から医師を養成してきたが、文部省の管轄下に入ったのはこのときが最初であった。戦中の全く物資不足の時代、新たに校舎を建てる木材もない。最初の授業は女子美術専門学校で始まった。実は、女子美術専門学校の草創期に順天堂が深く関与していた。校長佐藤志津は佐藤進夫人であった。女子美の付属女学校は佐藤女学校と呼ばれたのは進夫人が創設したからである。女子美の歴代の理事長は順天堂の院長であるという時代が続いていた。順天堂医学専門学校の理事長が女子美の理事長でもあったのである。
 昭和20年、戦後、医学専門学校制度は廃止されることとなった。そのとき、すべての専門学校はA・Bに区分され、Aのみを存続させた。順天堂医学専門学校はAと認定され、五年制の医学専門学校となって、昭和26年に専門学校の歴史を閉じた。
 順天堂は昭和21年5月15日に医科大学として認可され、校長に達次郎の後継者と目された有山登が就任した。戦後の混乱の中、校地の獲得に苦心したが、千葉県津田沼町の元陸軍騎兵連隊跡を取得し、翌22年6月、予科を開校した。学生のみならず教員も住宅難、生活難の時代であった。大学は旧兵舎を教室、学生寮、職員寮に大改造して、教師と学生が文字どおり寝食を共にする大学が始まった。現在、順天堂大学の特色となっている学生寮「啓心寮」はこのようにして始まったのであった。
 昭和23年、学制改革によって六三三制が始まり、順天堂医科大学は翌24年の学部二回生をもって廃止。新制大学を誕生させねばならなくなった。しかも、新制度では医学部は専門学部だけからなり、医学進学課程は四年制の他学部に設置せねばならなかった。順天堂大学に新学部を設置しなければ、医学部だけの単科大学となり、他大学の医進課程修了者を受け入れざるをえない。そこで大学当局は新学部として体育学部設置を決断したのである。体育学部設置を強く主張したのは東俊郎であった。東は戦後、文部省に新設された体育局の初代局長を務め、スポーツ科学の発展を痛感していたのである。しかしながら、急速なインフレ下で大学の財政状態が極めて悪かった。医学部と体育学部を開設するには多大な経費を必要とする学部であったのである。また体育学部を医科大に置くということは前代未聞の構想である。学内から強い反対もあった。しかし、理事長達次郎の勇断により、健康大学順天堂が誕生したのであった。
 体育学部は昭和26年に発足したが、ほとんど無名であったために滑り出しは極めて厳しいものであった。開部当初、教員は全国を回って学生を集め、卒業生を売り込んだ。なかなか成果が上がらないために体育学部廃止にまで追い込まれたこともあった。だが、教員・学生が一体となって、不断前進をモットーに努力し、全国インターカレッジ陸上大会や箱根駅伝で好成績を上げ、体育学部の存続を不動のものにしたのであった。
 昭和27年、医学部の学科設置が認可されて、医学部一回生を迎えた。医学部は順天堂医院のある本郷キャンパスを拡張し新校舎を建て、病院の増改築を繰り返し続けて、最新の医療設備・制度を怠りなく導入した。例えばICU、中央検査室設置など他大学に先んじて開設した。診療はいうまでもなく、病院食、病院のアメニティへの配慮、職員の患者への接遇はいつも高い評判を得てきた。
 現在、順天堂大学には附属病院が6病院ある。本院以外で最初に出来たのは静岡病院である。昭和42年に伊豆長岡の町立病院を引き受け、経営を立て直して、昭和50年に財団法人順天堂災害医学研究所を付設した。診療・研究を兼備した静岡病院は静岡県東部の基幹病院となっている。
 昭和59年に千葉県浦安市に附属病院順天堂浦安病院を開設した。千葉県と東京都東部を診療圏とした地域医療と先端医療を行うモデル病院を目指したのであった。
 一方、本郷キャンパスでは、昭和3年、関東大震災直後に建てた本院が老朽化したために全面改築を必要としていた。昭和63(1988)年に順天堂創立150年を迎えるに当たり、150年記念事業として、本館新築、体育学部のキャンパス移転、越谷病院の設置、医療短期大学の開設を計画して、昭和61年から準備に入った。
 記念事業は、かねてからキャンパス拡張を願ってきた体育学部が、千葉県印旛村平賀に新キャンパスを得て、昭和63年に習志野キャンパスから移転し、さくらキャンパスとして誕生したことから始まった。新キャンパスはさまざまな運動施設の拡充し、設備の新設によって体育学部の新時代が始まった。平成4(1992)年、体育学部をスポーツ健康科学部に改組し、陣容を整えて、初志であったスポーツ科学の追究を強化するとともに、スポーツ界の雄を輩出し、幅広い分野で活躍している。
 次の記念事業は平成2年、昭和43年に埼玉県越谷市に設置した財団法人順天堂精神医学研究所の附属病院を、精神病治療並びに精神医学研究を主体とした附属病院順天堂越谷病院の発足をもって果たした。
 順天堂は昔から看護師が高い評価を得てきたが、それは明治29年、全国的に極めて早い時期に順天堂医院で看護婦養成を始めていたからである。特に戦後、看護制度の変遷に伴って改変してきたが、次の記念事業として、看護専門学校を短期大学にすることを決定した。短期大学は本郷キャンパスを離れ、平成元(1989)年、千葉県浦安市に開設した。しかし、看護界および社会において看護教育のレベル向上が強く求められている。順天堂は遅きに失したが、平成16年に医療看護学部を発足させた。
 創立150年事業は、平成5年に順天堂医院新本館の完成をもって終わったが、本院では全国でもいち早く特定機能病院の指定を受け、いろいろなモデル事業を展開している。
 平成14年、東京都は江東区に江東高齢者医療センターを開設し、その運営を順天堂大学に委託した。2年間の試行期間のあと、順天堂大学医学部附属順天堂東京江東高齢者医療センターとなって、高齢者介護やアルツハイマーなどの研究センターとなっている。翌15年には練馬区の依頼を受けて、高野台に開設した練馬病院の設計段階から順天堂は関与し、附属練馬病院として開院した。現在、医療過疎の練馬地域の熱い支援と期待を受けて、予想以上の発展を見せている。
 こうして平成20年現在、医学部は本院、静岡、浦安、越谷、東京江東高齢者、練馬の6附属病院を擁するに至った。これにスポーツ健康科学部、医療看護学部の2学部が加わり、健康総合大学院大学として順調な発展をしている。
 現在の順天堂大学を特徴づける研究組織の充実、財政面の改善は、平成12年に小川秀興学長就任と同時に始まった。新学長は全順天堂の運営点検から始めて、特定の限られた職員に任されていた運営を、職域を横断した20のプロジェクトチームに検討させ、互いに虚心坦懐に知恵を出し合って、効率的な運営に改めた。その結果、大学の改善を多くの職員の身近な問題としてとらえられるようになったのである。
 小川学長は平成16年に理事長に就任したとき、学校法人順天堂の三大マニフェストとして、@危機管理体制の整備、A財務状況の公開、B広報活動の充実を掲げた。広報活動によって、順天堂の職員は誰でも大学の経営状況を知り、危機管理に備える立場を自覚し、結果として職員の順天堂への帰属意識を高め、責任ある行動を促すことになった。
 平成20年、順天堂は医学部学生の学費値下げを行った。これは小川学長になってから二度目の値下げであり、念願の私立大学医学部の学費の最低に近づいたのである。
 また、平成19年、学校法人順天堂は、わが国最大の格付け機関である株式会社格付投資情報センターから「AA」の格付けを得たことを報告して、この稿を終わる。

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