インタビュー

社会的処方を身につけ、 本当の意味で患者さんに寄り添える 医師を育成

「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること」※――これは世界保健機構(WHO)憲章の前文にある「健康」の定義です。では、「社会的に満たされた状態」とは、いったい何を指すのでしょうか? 順天堂大学医学部の武田裕子教授はこの問いに取り組み、医学教育で「健康の社会的決定要因(SDH:Social Determinants of Health)」を学ぶことの重要性を訴え続けています。 〔※公益社団法人日本WHO協会HPより〕

「健康の社会的決定要因(SDH)」とは何か。

「健康の社会的決定要因(SDH)」とは、生まれ育った国・地域・家庭などにより教育水準や所得などに格差が生まれ、その人の健康に直接的な影響が及ぶこと。現時点で「SDH」という言葉や概念は、一般社会はもちろん、医学部の教員や学生にはほとんど知られていません。
実のところ、私自身も長いあいだ「社会的に満たされた状態」の意味がわかりませんでした。社会と健康のつながりを強く感じたのは、2000年から5年余り琉球大学医学部附属病院で外来を担当したとき。沖縄の歴史や地域事情、経済状況などが患者さんの健康状態や気持ちの有り様に大きく影響している、と感じることが多々ありました。
その後、アフガニスタンでの国際協力活動で、紛争後の社会というものをまざまざと見せつけられました。紛争が原因で健康でいられない状況があり、子どもたちが無事に成長できるのかさえ確信が持てない社会が目の前に広がっていたのです。このとき、「社会的に満たされない状態」とはこういうことなんだ、と心から腑に落ちました。
その後、2010年に英国へ留学した際に、「健康の社会的決定要因(SDH)」という言葉に出会いました。英国ではすでに医学教育にSDHへの取り組みが取り入れられており、日本との差にずいぶん驚きました。

健康格差が広がる時代、
医学部でSDH教育が必要な理由とは。

SDHが存在するのは、なにも特別な地域だけではありません。経済格差とともに健康格差も広がっています。子どもの貧困、高齢者の一人暮らし、厳しい労働環境、LGBTといわれる性的マイノリティへの差別や偏見など、健康格差につながる社会的要因は、日本の至る所に存在します。
一般的な医療機関であっても、医師がSDHの存在を知らないでいると、病気は患者さんの自己責任ととらえられてしまうことがあります。たとえば、糖尿病の患者さんが食事制限を守らない、運動もしない、外来予約を守らない・・・これでは糖尿病が進行するのは当たり前。そうでしょうか?食事療法が守れないのは、経済的に苦しくて野菜や果物が買えず、安価に空腹を満たしているからかもしれません。経済的に余裕があっても勤務環境が厳しく、自宅で料理をしたり運動する時間がとれない方は少なくありません。給料日前に受診を控え、処方薬を少なめに内服して次の外来まで持たせようとしている方もおられます。患者さんが心ならずも置かれたこのような背景に、医師はSDHを知ることで思いを馳せることができるのです。

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武田教授「患者さんが心ならずも置かれたこのような背景に、医師はSDHを知ることで思いを馳せることができるのです」

病を診るだけでなく、地域の状況や
生活背景を理解し「社会的処方」を。

患者さんの生活背景に目を向けると、さらに一歩進んで疾病の予防や健やかな暮らしにもつなげられます。
例えば、高血圧症で定期通院する高齢のご婦人を診療している医師は、血圧がきちんとコントロールできていれば、役割を果たせていると思うでしょう。しかし、この方が最近外出先で転倒して自信を失くし、外来にタクシーで来る以外、買い物も宅配ですませひきこもり気味になっているとしたらどうでしょう。ますます虚弱になり、転倒のリスクもさらに増してしまいます。高齢者の大腿骨頚部骨折では、1年以内の死亡率10%という報告もあります。
もし、医師が血圧を測定するだけでなく、患者さんの暮らしぶりを尋ね、転倒後に一人で孤立している状況を把握したら、できることがたくさんあります。転倒の原因を医学的に考えたり、理学療法師に予防法を相談したり。地域包括支援センターへの紹介で地域の中でつながりが生まれれば、孤立を防げます。医療機関では提供できない、だけど健やかに過ごすには大切なサポートが得られるようにすることを、英国では、「社会的処方」と呼んでいます。忙しい外来でも看護師やソーシャルワーカーに一声かけて任せられれば、その後の患者さんの健やかさに大きな違いが生まれます。

「患者さんが治療を続けるために
必要なもの」を知る。

現在の医学教育では、病気になったときの身体の状態や、診断・治療法についてはとても詳しく教えます。精神的な病気や治療についてももそれなりに学びますが、患者さんの健康を損なっている社会的な要因への対処法についてはほとんど学びません。
前述の地域包括ケアシステムもそうですし、経済的に困窮する患者さんへの支援制度もそうです。例えば「無料低額診療事業」では、保険証があれば指定の医療機関で無料または低額で医師の診察を受けることができます。親が国民健康保険料を負担できず無保険になっていても、市区町村がその子どもに「短期保険証」を交付しています。そうした知識のないまま、医療をあきらめてしまうこともあるのです。
どんなに正しい治療法を知っていても、患者さんが病院に来られなければ治療を続けることはできません。健康格差の社会的な要因であるSDHの存在を知っていれば、その患者さんが治療を続けるために何が必要なのかがわかり、本当の意味で患者さんを助けることにつながります。

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武田教授「健康格差の社会的な要因であるSDHの存在を知っていれば、本当の意味で患者さんを助けることにつながります」

変化に対応できる医師を
育成するのが医学部の社会的責任。

2017年3月、医学部教育モデル・コア・カリキュラムが改訂され、SDHに関する教育が盛り込まれました。社会が急速に変化する時代にあって、その変化に対応できる医師の育成は、医学部の社会的責任(Social Accountability)でもあります。医師は医療のフロントラインに立ち、日々患者さんと接しています。医師だからこそ、患者さんの健康を損なっている社会の状況に気づけるのです。そのことを、社会の仕組みや制度をつくる立場の方たちに知らせるのは、医師の責務といえます。新しい制度が必要であれば声を挙げ、社会へ働きかけていくことも、医師の大切な役割でしょう。従来の医学部では教えてこなかったSDHですが、こうした役割を医師が果たせれば、より病気になりづらい社会を実現できるはずです。
医学部の社会的責任をさらに掘り下げていくと、社会における公正(Social Justice)に行きあたります。
私が所属する医学教育研究室ではSDHの授業はもちろん、選択実習を通して、学生たちに社会的に困難な状況に置かれている方々と実際に出会ってもらっています。外国につながりを持つ日本語を母語としない方々、経済的に困窮している家庭の子どもたち、路上生活者、日雇い労働者、LGBTなど性的マイノリティと呼ばれる方など、それまで学生が接したことのない方々です。学生たちは、自分の中にあった無知や誤解、偏見に気づく機会となっています。多くのNPO団体のご協力をいただき、年間を通じて学びたい学生は、さまざまな活動に参加させていただいています。その一つが、埼玉県三芳町のNPO法人「街のひろば」です。

支援団体の活動に複数の学部と連携。
「オール順天堂」で取り組む。

「街のひろば」は、アジア・南米など外国につながりを持つ子どもたちに学習支援を続けているNPO法人です。順天堂大学ではこれまで私たち医学部をはじめ、医療看護学部、保健看護学部、スポーツ健康科学部、国際教養学部の5学部から教員と学生・大学院生が支援活動に参加してきました。「健康相談」や処方箋にまつわる勉強会、栄養教室など、その時々の依頼を受けて活動しています。スポーツ健康科学部の参加を得てゲームなどのアクティビティがとても盛り上がりましたし、医療通訳を目指す国際教養学部の学生は言語面からのサポートを実践しています。
すでに4回活動を実施し、回を重ねるたびに参加学部や参加学生数が増えています。今後もどんどん活動の幅を広げ、「オール順天堂」で取り組むのが目標。順天堂の学是「仁」が、私たちの背中を押してくれます。

<関連リンク>
NPO法人「街のひろば」との"外国につながりを持つ家族"への支援活動について

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外国につながりを持つ子どもとその親を対象にした健康相談の様子。武田教授による健康相談に医学部の学生(右端)が付き添った。

在留外国人とのコミュニケーションに役立つ
「やさしい日本語」とは。

私がSDH教育とともに力を入れているのが、「やさしい日本語」を医療現場へ普及させる活動です。
日本で暮らす外国人の数は約223万人(2017年末時点)。そのうち簡単な日本語を話す人は約63%で、実は英語を話す人よりも多数派です。そこで行政窓口や観光などで力を発揮しているのが、「やさしい日本語」です。
「やさしい日本語」は、主語と述語を明確にする、一文を短くする、難しい言葉を易しい言葉に置き換えるなど、日本語が母語である人なら少し配慮をするだけで使いこなせるようになるもの。これを医療関係者に広めれば、日本語があまり得意でない方々も医療機関に足を運びやすくなり、少しでも医療格差をなくすことにつながるのではと考えました。これまで、医療系学生団体を対象にしたワークショップや、日本プライマリケア連合学会の医師や薬剤師向けセミナーで伝えてきました。附属病院の一つである順天堂医院でも、看護部の協力を得て250名もの看護職の方々に話させて頂きました。これからも普及に向けた活動を続けていく予定です。

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順天堂医院の看護職員向けに行った講習会の様子。留学生の協力を得て「やさしい日本語」のロールプレイも行われた。

さまざまな効果がある
「やさしい日本語」を医学部や病院へ広めていきたい。

「やさしい日本語」のワークショップ後に実施したアンケートで、日本語を母語としない患者さんに接する不安が有意に減少し、積極的に力になりたいという回答が60%から94%に増えました。英語よりも簡単な日本語を話す外国の方が多い事実や、そうした方たちを支援する団体があることを医療者に認知してもらう機会になっています。
在留外国人の方たちに、患者役として協力していただくワークショップを開催することもあります。「日本語の勉強になった」という言葉に加え、「自分たちのために多くの医療者が努力してくれていて嬉しかった」との感想をいただきました。

もちろん、「やさしい日本語」は万能ではありません。深刻な病気の説明や病名の告知、手術の説明など専門用語を使って医学的な内容を説明する場面では、医療通訳が不可欠です。また、人によって何が「やさしい」のかは異なります。日本語の修得レベルも様々ですし、相手の理解の程度や、置かれている状況、それぞれの文化的な背景なども考慮して話す必要があります。「やさしい日本語」という一つの決まった言葉があるわけではありませんので、「やさしい日本語」の修得は「知識」の獲得というよりも、むしろ「態度」領域の学修になると感じています。相手の反応を見ながら言い方をいろいろ工夫する、心づかいの部分がとても問われると思います。

最近は、便利な翻訳アプリもありますが、「やさしい日本語」は主語が明確で結論も把握しやすいため、正確に翻訳されるというメリットもあります。
また、「やさしい日本語」の恩恵を受けるのは在留外国人の方だけではありません。ご高齢の方や、手術後や体調不良で集中力が低下している入院患者さん、理解力が低下している方などにも助けになります。今後は順天堂大学の学部教育や附属6病院の現場でも、「やさしい日本語」を広めていきたいですね。

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(※本記事のインタビューは、2018年10月に実施したものです)

武田 裕子(たけだ・ゆうこ)
順天堂大学医学部 医学教育研究室 教授
1986年筑波大学医学専門学群卒業。 医学博士。 米国にて内科/プライマリ・ケア専門研修。帰国後、筑波大学病院卒後臨床研修部に勤務。2000年に琉球大学地域医療部講師。2005年東京大学医学教育国際協力研究センター准教授、2007年三重大学地域医療学講座教授。この間、プライマリ・ケア診療・地域医療教育・国際協力に従事。2010年に学生に戻ってロンドン大学衛生熱帯医学大学院留学。 公衆衛生学修士号取得後、キングス・カレッジ・ロンドン医学部研究員。 2013年にハーバード大学総合診療部門リサーチフェロー。2014年より現職。 日本プライマリ・ケア連合学会理事、日本医学教育学会理事・学会誌『医学教育』編集委員長。