順天堂グローバル教養論集第一巻20160325
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91中学校英語科における協働的な対話の検討在で対等な貢献への視座に基づき、ここで検討する。事例ⅲにおける一連の松田くんの発話について、教師は「少しは気づいていたけれど、それほどまでに多く『わからない』と述べていたとは思っていなかった」と語っている。したがって、松田くんを始めとする英語が「『わからない』生徒の発話に焦点をあてることはなかったし、その『わからなさ』を授業で活用する」という、予見不能な偶発性への対応を教師は、2009年の時点では殆ど企図していなかったと解釈できる。加えて、教師は同年に、「英語は繰り返し勉強しないとわからない教科である。授業を集中してしっかり聞いていないから、わからなくなるのだ。日々の地道な努力を惜しんでいては、決してわかるようにはならない」とも語っており、授業中に「わからない」と述べる生徒が、級友との間で対等な貢献を成し得ることにも、当時は考えが及ばなかったと解釈できる。ところが2011年の事例ⅳにおいては、英語が不得手な菅沼くんが関係代名詞の総括を述べるという、教師にとっての予見不能な偶発性を伴う事態が生起した。さらには菅沼くんがゆっくりと説明したことばが、英語が得意な林くんや伊藤くん (34) に支持される運びとなった。よってここでは、一般に見られる得意な生徒による不得手な生徒への説明(山本, 2009)ではなく、級友間での学力差に左右されない、より対等な貢献が示唆される。教師も以下のように述べている。あの授業では、グループの発表が私の当初の説明を超え、生徒にとってもっとわかりやすいことばや表でまとめられていた。そして英語が苦手な菅沼くんが表に基づく発表をし、それを学級全員で共有し、英語の得意な生徒が『菅沼くん、ありがとう』と記す、という自分がそれまで思い描いていた理想的な文法の授業に近づいたとも思った。また、菅沼くんの見事な説明を聴いて、子どもを侮ってはいけないとすごく反省した。あの子にはできないかもしれないと思うことを、協働ではできるようになるのだ、ということを再認識していた。色眼鏡で子どもを見てはいけない、と改めて思う大きなきっかけになった。また教師には決して成し得ないことが、協働学習では可能になるということを実感していた。教師一人の力では全ての生徒を理解させることには限界があるかもしれないが、生徒間対話を重視した授業だったら、英語が苦手な生徒を救うことが可能なのではないか。頭に描いた指導案通りにいかなくても、生徒の認識に寄り添い、即興的な対話に柔軟に身を委ね、生徒の理解を深める授業を日々していきたいと考えるようになった。「全員がわかる」授業をどのように創り出せるのかを考え続けていきたい。つまり事例ⅳの教室談話は、英語が苦手な菅沼くんが発表者となり、加えて彼による説明が英語の得意な級友に支持されるという、予見不能な偶発性と参加者による変幻自在で対等な貢献を包摂する、協働的な創発の過程を示唆するものである。さらにこの協働的な創発の過程においては、授業に参加している生徒のみならず、教師にも新たな知がもたらされていると解釈できる。教師は、知識構築が互恵的になされる対話空間に身を置き、上記のような認知過程を経る中で、より複雑で蓋然性の高い状況における生徒間対話、ならびに協働的な対話のあり方を追究していくようになったと考えられる。6. 総合考察 前節では、関係代名詞の授業談話の様相を、協働的な創発(Sawyer, 2013)の視座に即し検討している。本節では最初に、2009年と2011年の教室談話のあり方について、年度ごとに総括する。 事例ⅰ(表1) と事例ⅲ(表2)は、2009年の関係代名詞導入と総括時の談話録から抽出し

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