順天堂グローバル教養論集_第二巻_2017年3月(ISSN2424-0001)
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19海の反乱1. 序論 カンボジアがフランスの保護国となって二十余年後、1884年6月17日の新条約で、王国の政治経済制度に大幅な変革が加えられ、フランス人理事官が各地方に配置されることになった。その翌年、1885年1月8日早朝のサムボーSambour基地(メコン河上流)攻撃を嚆矢として、各地で反仏反乱が勃発した。フランスは4,000人の兵力を投入し、ノロドムNorodom王とその兵力の助けを受けて、1886年末までに一応の平穏を得た。現在のところ植民地期カンボジア社会史研究は極めて少なく、この反乱についても、通史の一部として叙述されるものの、本来ならばその裏づけとなるべき同時代現地史料による実証研究を欠くという、異常な状況にある。 東南アジア研究全体では、植民地期の経済と民族運動・ナショナリズムは、最も研究が盛んな分野である。それにもかかわらず、カンボジア研究で植民地期が注目されない理由には、メコン東岸地域のゴム園を例外として、大規模なプランテーション開発などが行われなかったこと、「衝突なき植民地化une colonisation sans heurts」と表現されるように(Forest, 1980)、大規模な抵抗運動は発生しなかったとされてきたことが挙げられる。 オズボーンMilton Osborneは、1885年反乱に関するフランス人の叙述が印象論的で、フランスが困難に直面した事実を隠蔽しようとする傾向にあったとする。チャンドラーDavid Chandlerは、フランス人の著作は何も起こらなかった時代として、植民地期を省略してしまう傾向があるという。タリーJohn Tullyもまた、「理想的な、衝突のない、恩恵としての植民地支配」という宗主国の歴史観の存在を指摘している。オズボーンとチャンドラーは、フランス語の著作に比すれば多くの紙数を1885年反乱に割いているが、いずれも通史であるために、ノロドム王の権威が衰え、フランスの支配が強化されていく1過程としての政治史的な概説にとどまっている。ノロドム王の反乱への関与については、王が背後で糸を引いているのではないかという疑惑が当初から存在したが、決定的な史料的根拠はなく、王は、少なくとも表向きは、第2王で王弟のシーソヴァットSisowathや大臣たちに命じ、フランスに協力して反乱の鎮圧にあたらせているし、オズボーンやチャンドラーも、王の威光が反乱の鎮静化に大きく作用したことを認めている(Chandler, 2008, pp. 167–185; Osborne 1969, pp. 206–230; Tully, 1996, p. vii)。 植民地支配を経験した大陸部東南アジア諸国のなかでは、唯一カンボジア王権のみが現在も存続している。とくに1970年代から続いた内戦の後、1993年に国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の監視下で行われた選挙では、独立の英雄ノロドム・シハヌークSihanoukが復位して、カンボジア王国が復活する道が選ばれた。現在のカンボジア社会における王権の意味を理解するためには、前近代から現在のあり方への変容過程、すなわち植民地期のカンボジア王権とフランス植民地権力、その支配下にgovernment. It may be thought that stabilization of the King’s rule after the rebellion gave conditions advantageous for the French to realize “the colonization without the col-lision” in Cambodia.Key wordsカンボジア、タイ湾、フランス植民地期、反乱、王権Cambodia, Gulf of Thailand, French Colonial Period, Rebellion, Kingship

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