順天堂グローバル教養論集_第二巻_2017年3月(ISSN2424-0001)
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21海の反乱貫く仏領インドシナの大動脈として、植民地期に成長を遂げたのと表裏一体をなして、タイ湾岸は、前植民地期には対シンガポール交易を目的とする「王の港」コムポートKampotを中心に栄えたものの、仏領インドシナではサイゴンにその地位を奪われ、辺境化していった地域である。なお現存する史料が限られているため、先論と同様、本論でも植民地官吏による現地報告を主史料とせざるを得ない。ただしタイ湾岸地域に関しては、反徒の長の1人、バラット・クオンBalat Khuonのクメール語書簡が残されている(Francon, 1887)。反徒側の文書が残ることは珍しく、貴重であるため、4章3節でその内容を紹介する。 2. 反乱前後の地域状況 タイ湾岸地域はカルダモン山脈1)によって、王都プノム・ペンPhnom Penh(プノンペン)など、王国の中核地域から隔てられている。主要港市のコッ・コンKaoh Kong、スラエ・アムベルSrae Ambel(コムポン・サオムKampong Saom)、コムポートは、山脈から海に流れ出すプレークPrek(川)のうち、比較的規模が大きいものの河口近くに立地している。 コッ・コンとコムポン・サオムは18世紀、コムポートは19世紀から文献史料で存在を確認することができるが、詳細な情報が得られるのは、1880年末のパヴィーAuguste Pavieによる踏査(Pavie, 1884)以降である。反乱の発生後は、ルクレールAdhemard Leclèreらコムポート理事官が、盛んに現地情報の収集や巡察を行っている。本章ではこれらの史料を比較して、反乱前後で地域にどのような変化が起こったかを確認していく。2.1. コムポート以東:バンティエイ・ミエスBanteay Meas地方、ピエムPeam地方 1887年3月のルクレールの巡察報告書(Leclère, 1887b)によると、ピエム地方の中心地コムポン・トラーチKampong Trachは、周辺の村々2)に開かれた中国人の胡椒園の集荷センターであり、かつては200軒以上の家屋があったが、反乱のために住民が退去し、プレーク右岸に20軒、左岸に40軒の計60軒ほどに縮小していた。2.2. コムポート以西:プノム・ボーク・コーPhnam Bokor南麓 パヴィーの踏査録を見ると、この地域では、プノム(山)・ボーク・コーから海に注ぐプレークと、海岸に沿った陸路の交点に村落が立地し、上流の森林産物や周辺で生産される米などを輸出し、衣類や煙草、檳榔子などの生活必需品を輸入する小港として、コムポートと結びついていた。 1888年1月のルクレールの巡察報告書(Leclère, 1888a)と比較すると、村落人口は、反乱の前後で著しく縮小している。パヴィーはコッ・トーチKaoh Touchに15~20軒の住居があったと記しているが、ルクレールは漁民兼農民のカンボジア人の家が4軒と記している。プレーク・トナオトPreaek Tnaotでは、パヴィーがカンボジア人20家族、多数の中国人商人とアンナム人(ベトナム人)の木こり100人ほどが住んでいたと記しているのに対し、ルクレールはわずかにアンナム人の家が5軒と寺院が1つ、遠方のやぶのなかにカンボジア人の家が散らばっているのみで、「かつて20軒以上の家があった痕跡」を確認したとする。 プレーク・トナオトの衰因は、フランスによる鎮圧戦であった。村に入ったルクレールは、女性たちから、ヴォベールVaubert隊に捕えられ、プーロ・コンドールPulo Condoreに投獄されている夫や父親ら、10人ほどの解放を懇願されている。2.3. ヴィエル・レーンVeal Renh湾周辺 1905年4月のコムポート理事官ルロワLeroyの巡察報告書(Leroy, 1905)では、ヴィエル・レーンが「コムポートのまさしく穀倉」であり、広

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