順天堂グローバル教養論集_第二巻_2017年3月(ISSN2424-0001)
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22順天堂グローバル教養論集 第二巻(2017)大な土地と多くの水源に恵まれていると記している。1888年のルクレールの報告書を見ると、この地域では、プレークの水源に水田が開かれている村が多い3)。パヴィーもまた、トゥック・ロオクTuek L’ak、ヴィエル・レーン、サムラオンSamrong、リエムReamの4スロックSrok(地方)で収穫される米の大部分がコムポートに輸出されていたこと、ヴィエル・レーンの水田の大半がコムポートの中国人やチャーム人に属しており、現地の農民が彼らに従属していたことを記している。 反乱の前後では、プノム・ボーク・コー南麓地域とは対照的に、村落の規模が格段に大きくなっている。トゥック・ロオクでは、パヴィーが混血métis中国人の小屋が12~15軒としているのに対し、ルクレールは60軒の家があり、うち20軒は中国人のもので、残りはカンボジア人のものであったとしている。コムポン・スマチKampong Smachでは、パヴィーが混血中国人あるいはカンボジア人の小屋が20軒としているのに対し、ルクレールは中国人商人の家30軒とカンボジア人農民の家20軒と記している。ヴィエル・ミエスVeal Measとサムラオンでは、パヴィーは住居の数を記していないが、やはり規模が拡大している可能性が高い。ルクレールはヴィエル・ミエスについて、コムポートよりも立派な寺院があり、50軒ほどの家が平原に散らばっていて、そのうち20軒ほどは中国人商人の家であったと記している。サムラオンにも50軒ほどの家があり、うち25軒がマレー人のものであった。 反乱中のこの地域は反徒の勢力圏であり、コムポートとの政治的・経済的紐帯は断たれていた。1886年10月のコムポート理事官府月報に、以下のような報告がある。トラウイ・コッTraeuy Kaoh(現在のコムポートの町の正面にある中州)のマレー人の多くがヴィエル・レーンに水田を持っていたが、反徒を恐れてトゥック・ロオク沿岸に行かなくなった。一方ヴィエル・レーンの住民たちは、反徒を支援しているため、フランス人を恐れてコムポートまで米を運んで来なくなった。その結果、充分な量の米がコムポートに供給されなくなってしまった。またルクレールの報告書を見ると、彼が巡察中に会見したメー・スロックMe Srok(村長)の大半が元反徒であり、「戦争」中に反徒が築いた堰や砦が随所に残存していた4)。2.4. コムポン・サオム湾:スラエ・アムベル パヴィーはスラエ・アムベルが「ムサンMessanh年(巳年、1833年)」のシャムの侵略によって徹底的に破壊され、全住民が捕虜として連れ去られ、地名の由来となった塩田(スラエ・アムベルはクメール語で塩田を意味する)が放棄され、昔日の繁栄を失っていたと記している。その後、中国人や中国系シャム人が移り住んできて、彼の訪問時には50軒ほどの小屋があり、うち2軒のみにアンナム人が住んでいた。水際の家々の前には半ダースほどの小型ジャンクが停泊し、コムポート、チャンタブン(チャンタブリーChanthaburi、現タイ領内)、バンコクと交易しており、シャムのティカルtical(バーツ)、コーチシナの緍ligatureなどが貨幣として流通していたが、仏領インドシナのピアストルpiastre(ドル)は見られなかった。 1890年12月のコムポート理事官バルブBarbeの巡察報告書(Barbe, 1890)から、スラエ・アムベルが反乱によって再度荒廃したことが分かる。40軒ほどの小屋の半分が戦争で破壊され、あたりには家財が散乱し、板には焼け焦げた跡が残っていた。残された住民は、シャムやコムポートに脱出する手段を持たない、貧しい人々ばかりであった5)。廃材を利用して「王の砦」が建てられ、コムポートの官人2人の指揮下に20人が駐屯し、穴が開いた大砲2基、グラース銃20丁と銃弾600発を装備していた。対する反徒の長は4人で、32人の人員と銃22丁を装備していた。また、日常の言語はシャム語で、シャムの貨幣が流通し、シャム人とカンボジア人あるいは中国人との混血type

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