順天堂グローバル教養論集_第二巻_2017年3月(ISSN2424-0001)
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23海の反乱croiséが多く見られるなど、シャムの影響が顕著であった。この地域にシャムの影響が強く及んでいることについては、1905年のルロワの報告書でもまだ、スラエ・アムベルの産物の多くがシャム方面に輸出されており、シャム製のタバコが市場を独占していたことが記されている。3. タイ湾岸地域における1885年反乱の経緯 本章では主にルクレールの反乱に関する報告書(Leclère, 1887a)によって、反乱の勃発から大規模な戦闘が終息するまでの経緯を整理しておく。3.1. 反乱の勃発 1885年2月末、デイDey・トレアンTreangのスダチ・トランSdach Trañ(4章1節参照)、オクニャー・ピスヌローク・チュークOkña Pisnolok Chhoukが地方の官人たちを召集し、秘密集会を開いた。コムポートからは、バラット(4章2節参照)・スオンSoun、ソピエSophéa・プロムProm、メー・ポルMépol・ウクOuk、メー・カンMékang・プリエプPréapの4官人が参加した。彼らが帰還すると、コムポート知事チムChhimの家で集会が開かれ、官人のバラット・クオン、バラット・メイMey、バラット・ウムUm、テープTép、クララーピエスKralapéas・ミエスMéasらが出席した (Leclère, 1887a, p. 15)。 3月17日朝、ハーティエンから派遣されたアンナム人の急使(用件は不明)がコムポート知事チムの家で捕えられ、斬首された。正午には、各50人の反徒団がコムポートのアヘン倉庫と電信局6)を襲撃し、電信機を破壊し、電信線を切断した (Leclère, 1887a, p. 16)。 その後、反徒たちはプレーク・コムポート西河口に関所を設け、河路に木で堰を築き、石を詰めたジャンク船1隻を川底に沈めて防御にした。 フランス側は4月初旬に蒸気フリゲート船「射手座号le Sagittaire」とジャンク船2隻を派遣し、関所とコムポート周辺で銃撃戦の末、500人ほどの反徒たちを敗走させた。その後、トラウイ・コッに理事官府が開設され、初代理事官マルカンMarquantが着任した(Leclère, 1887a, pp. 17–20)。3.2. バラット・クオン、クアン・キエムの主導権掌握とプノム・サー砦での戦闘 反徒たちはプノム・トゥック・クラホームTuek Kraham(不明)で集会を開き、バラット・クオンが主導権を握った(Leclère, 1887a, p. 20)。 7月初旬に中国人海賊クアン・キエムQuan Khiemが反徒に合流し、バラット・クオンに代わって主導権を握ると、コムポートの町近郊の小山、プノム・サーSâに砦を築き、1,500人以上の戦力を集結させた。7月12日にクリップフェルKlippfel隊が派遣され、銃撃戦の末、プノム・サー砦を陥落させた(Leclère, 1887a, pp. 22–26)。3.3. 第2王の巡撫と反徒たちの投降 8月3日に第2王が任命したコムポート知事、メイMeyが着任した。第2王自身もプノム・スルオチSruoch、バンティエイ・ミエス、トレアン、コムポート地方を巡察し、多数の反徒の長が彼や理事官府に相次いで投降した(Leclère, 1887a, pp. 28–29; 1885年8月報, 9月報)。 しかし11月末から12月初旬にかけて、複数の反徒団が再結成され、1886年1月から3月にかけて、フランス人士官が指揮する鎮圧部隊が各方面に派遣された。3月中旬には、コムポート周辺の村々が、反徒から焼き討ちや略奪をうけた(Leclère, 1887a, pp. 29, 31–32; 1886年2月報, 3月報)。3.4. ブン・ポー砦の戦闘から反乱の鎮静化まで 1886年3月30日から4月1日にかけて、クアン・キエムがプノム・サー近くのブン(湖沼)・ポーBang-Po/Bo-Eng-Pôに築いた砦に、600人以上の反徒が集結した。5月8日にヴォベール隊100人および理事官サントノワSaintenoi率

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