順天堂グローバル教養論集_第二巻_2017年3月(ISSN2424-0001)
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24順天堂グローバル教養論集 第二巻(2017)いる民兵milicien 30人が派遣され、銃撃戦の末にブン・ポー砦を陥落させた。 その後、1886年末にクスKus(現国道4号線上、コムポートとトレアンのあいだ)で王と反徒たちが会見し、和平が成立した。翌1887年1月に反徒側のブン・ポー砦とスナーム・アムピルSnam-Ampil砦が撤去され、1888年5月にフランス側のコムポート基地が撤去されることとなった(Leclère, 1887a, p. 33)。4. 反徒の長たち コムポート理事官府の定期報告書(Rapports)やルクレールの報告書(Leclère, 1887a)を見ると、メコン沿岸地域同様、タイ湾岸地域の反徒たちも、個別の長に率いられた集団が各地に割拠し、書簡を取り交わして互いに連絡し、離合集散を繰り返していたが、階層や序列を持った単一の組織を構成してはいなかった。長の大半は個人名の前に、オクニャー、バラット、メー・カン、メー・ポル、セーナーSenaなどのタイトルが付されており、官人の地位にあったか、官人を自称していたことが分かる。4.1. 知事 反徒の長たちのなかで最も官位が高かったのは、オクニャー・ピスヌローク・チュークで、トレアン地方の知事であると同時に、トレアン地方を筆頭とする複数の地方のまとまり、デイを統括するスダチ・トランという地位にあった。彼は1885年2月の秘密会議を主宰したが、それ以降は1889年半ばに罷免されるまで、少なくともタイ湾岸地域では動静が明らかではない (Leclère, 1887a, p. 15; 1889年7月?(日付なし、内容から判断)報)。 コムポート知事オクニャー・チムは、コムポート在住のフランス人の殺害に反対するなど (Leclère, 1887a, p. 18)、反乱に積極的ではなく、主導的立場には立っていない。彼は1885年9月にクスで第2王に投降したとされているが (Leclère, 1887a, p. 29)、その後も、オクニャー・スナーン・チュークSnang Chhukとオクニャー・ソピエ・プロムを補佐にして、プノム・スルオチ地方のカム・サット・チャーク・チュルムKam Sat Chak Chroum(不明)に割拠している、プノム・スルオチ地方を奪還したなど (1885年10月報,1886年1月報)、反徒の長としての活動が報告されている。 ピエム地方では1885年8月報から、プー・ニェートPhu Nghetという人物が、「重大な脅威」と名指しされるようになる。同年10月報によると、彼はピエム地方を統治し、トゥーク・ミエスTuk Meas村とコムポン・トラーチ村の住民に強い影響力を持っていた。翌1886年1月15日時点では、300人を率いてクアン・キエムやバラット・クオンと合流していた (Leclère, 1887a, p. 32)。同年3月報にも、主要な反徒の長として彼の名前が挙がっている。その後1886年後半から1887年前半にかけて、彼の反徒団300人がピエム地方を走り回っている、コムポン・トラーチを脅かしている、ピエム地方の複数の村で胡椒の税を徴収している、古い銃50丁で武装している、同地方を平穏とは言い難い状況に陥れているなどと、繰り返し報告されている (1886年8月報,9月報,10月報,1887年2月報,3月報,4月報)。1887年以降、彼はピエム知事と呼ばれるようになり (1887年4月報)7)、彼の名にオクニャー・リエチエ・セーテイRéachéa Sêtheiというピエム知事のタイトルを付した報告書もある8)(1889年7月?報)。 ルクレールによると、19世紀中葉から後半にかけて、以下の13人が歴代コムポート知事を務めていた:①オクニャー・マウMau(1841年頃)、②オクニャー・カンKan(1845年頃)、③オクニャー・トンTong(~1859年頃)、④オクニャー・スムSum(1859年頃)、⑤オクニャー・チェットChét(~1864年)、⑥オクニャー・トゥーThou(~1868年頃)、⑦オクニャー・ライLaye(~1874年)、⑧オクニャー・ニェートNghet(~1878年頃)、⑨オクニャー・ポックPok、⑩オクニャー・チム、⑪バラット・

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