順天堂グローバル教養論集_第二巻_2017年3月(ISSN2424-0001)
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25海の反乱クオン、⑫オクニャー・メイ、⑬オクニャー・メンMén (1887~1894年) である。 このうち④スム、⑤チェット、⑦ライ、⑨ポック、⑩チム、⑫メイの6人は、王都から派遣されてきた。反乱の発生時点で知事であった⑩チムは、宮廷の大臣のいとこであり、若い頃にフランス軍に従って、ラオスに行った経験を持っていた。⑥トゥーと⑬メンの2人は、バンティエイ・ミエスの出身である。ルクレールが「反徒の知事」と呼ぶ⑪バラット・クオンは、コムポートの出身であった。彼については本章3節で詳しく取り上げる。③トンは中国系カンボジア人で、プノム・サーの麓に住居があり、約550,600㎡のサトウキビ園と砂糖工場を持っていた9)。⑦ライはシャム人、⑧ニェートはコムポートのマレー人であった (Leclère, 1887a, pp. 7, 8, 10, 13–14)。すなわちコムポート知事の約半数が王都から派遣されており、その地位は明らかに世襲ではなく、非クメール人にも開かれていたことが分かる。 さらに⑩チム、⑪バラット・クオン、⑫メイの3人は、同時期に重複してコムポート知事を称している。⑪「反徒の知事」バラット・クオンを任命したのは、同じ反徒の長である、中国人海賊クアン・キエムであった。⑫メイは3章3節で触れた通り、第2王によって任命されている。⑩チムは反乱以前からの知事であり、自らの正統性の根拠として、ノロドム王によって任命され、誠忠飲水の儀式に参加した経験を主張している。彼はクアン・キエムとバラット・クオンに対抗するため、スダチ・トランであるオクニャー・ピスヌローク・チュークからクララーハオムKralahom(水軍・水運を担当する大臣)に任命された上で、バラット・ウムを後任のコムポート知事に任命した(Leclère, 1887a, pp. 22–28)。クララーハオムはカンボジア王国の5大大臣の1人で、本来はプノム・ペンの宮廷にいてデイ・トレアンを管轄する役職である。メコン沿岸地域同様、タイ湾岸でも反徒の長たちが独自に知事の任命を行っていたことが確認される(北川,2014, pp. 103–104)。4.2. バラット 反徒の長のなかで最も人数が多いのは、知事を補佐する役職、バラットの地位にある者であった。少なくともタイ湾岸地域では、知事と同じく、バラットの地位が非クメール人にも開かれていた。例えばスオンというバラットは、コムポン・バーイKampong Bay(現在のコムポートの町の中心地)の中国系カンボジア人で、「最近髪(弁髪)を切った」と記されていることから(Leclère, 1887a, p. 15)、移民の初期世代であることが判明する。またネアクNéakというバラットは、コムポン・スヴァーイKompong-Svay村(現在のコムポートの町の近郊)のマレー人有力者であった(Leclère, 1887a, p. 19)。 フランス植民地当局にとっても、バラットは現地を掌握するために有用な人材であったらしい。例えばルクレールの1888年の巡察報告書には、スナーン・イYと、元反徒の長であったバラット・ウム10)、バラット・ケスKésが同行し、地名を始めとした現地情報を提供したと記されている。1887年のコムポン・トラーチ巡察にも、コムポート知事とバラット・ウンUn、スナーン某、海南人幇長が同行している。同じくルクレールによる1889年9月8日付『オクニャー・モントレイ・サンクリエム・トゥットOknha Montrey Sangkream Tutの行動に関する情報』(Leclère, 1889)には、プームPhum(村)・タム・ターTham Ta(不明)に住むバラット・エクEkが現れる。彼はコムポート地方の北に接するタン・クサチTang-Ksach地方ター・カエンTakaenのメー・スロック・メイMeyから、タン・クサチ知事トゥットが反徒団を自宅に泊めたという報告を受け、これをプノム・スルオチ知事オクニャー・ヴォンサー・ウテイVongsa Outeyに書簡で報告し、人員を率いてトゥットの逮捕に向かうよう、折り返し命令を受けている。 プノム・スルオチ知事は、バラット・エクの

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