順天堂グローバル教養論集_第二巻_2017年3月(ISSN2424-0001)
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26順天堂グローバル教養論集 第二巻(2017)他、プーム・トム・サンカエThom Sang-Kaé(不明)のスナーン・メンMenh、プーム・ター・カエンのモノー・ソックMono Sokを部下に持ち、タン・クサチ知事は自らの部下として、バラット・スヴァーイSoayとスナーン・エクEkを任命している。現時点では可能性にとどまるが、バラットは現地で任用される在地性の高い役職であり、地方行政の実務担当者であったのではなかろうか。4.3. 反徒の知事バラット・クオンの書簡 プノム・ペンの国立公文書館は、クオンがコムポート知事として発したクメール語書簡2通を保管している(Francon, 1887)。1通はスナーム・アムピル村とマック・プランMeakprang村のメー・スロック宛、もう1通はオクニャー・マハー・サムバット・セーテイMoha Sambât Sêthei(不明)宛である11)。同送されたコムポート理事官府書記官の送り状には、クオンが多数のメー・スロック宛に、同様の書簡を送っていた旨が記されている。 2通のうち、前者の内容は以下の4点である:①オクニャー(クオンの自称)はプレイ・トテンPreiy Totengで王に拝謁し、バランセースBarangsaes(フランス人)がトゥックToek・デイ(水と土の意味、領土を意味する)を王に返還し、我々はバランセースのリエチ・カーReac Kar(行政府あるいは官吏)との戦闘をやめ、バランBarang(フランス人)は戌年3月までに全てのカエトKhaet・スロック(地方)から兵を引くことになった旨を知らされた。②村内のオクニャー・ポニェPoñea・プレアPreah(高官のタイトル、すなわち官人たち)、クマエKhmaer(クメール)・チェンCen(中国)・チャームCam・チヴィエCvear(マレー)の民全員に命ずる。竹を切って床材を作り、木でそれを受ける根太を作り、葉で壁を作り、スナーム・アムピル村のオクニャー(クオン)の家を修理し、正面のベランダも相応に美しくせよ。③カエト・コムポートのオクニャー・ポニェ・プレア、クマエ・チェン・チャーム・チヴィエの民で、ともにリエチ・カーをなそう(王に仕えよう)という心を持たず、バランセースのボンBon(威徳)を頼ろうとする者は、「生きる者は生かせ、死ぬ者は死なせよ(殺してもかまわない?)」。④オクニャー(クオン)は皆の名簿を所持しており、オクニャー・ポニェ・プレアやニエイ・コン・トアプNeay Kong Toapv(軍隊の長)の誰かがバランのボンを頼れと脅し命じてきた場合には、承服しないでオクニャー(クオン)のもとに逃げて来さえすれば、スナーム・アムピルとマック・プランのクマエ・チェンの兄弟たち、ネアク・モック・カーNeak Mok Kar(役人)たちの安全を保障する。 プレイ・トテンでの拝謁とは、1886年末にクスで開かれた王と反徒たちの会見を指すのであろう。この書簡では、王に拝謁し、直接言葉を授けられたという文言に、クオンのコムポート知事としての正統性を裏づける意味を持たせている。その上で彼は、知事として住民の名簿を保持し、地方内の全住民から税や物資を徴収し、動員する権限を持つと同時に、外敵から保護する力を持つと主張している12)。さらにフランス植民地権力に関しては、リエチ・カーやボンなど、カンボジア王権に対するのと同じ用語を使っており、両者が同等の立場で対峙する存在と見ていたことが分かる。彼が理解する和平とは、フランスの支配に降ることではなく、フランスが兵を引いて王に領土を返還し、自身が武器を置くことであった。彼は1885年9月11日に理事官府に投降した後も、50人を率いてダムナック・トゥークDomnak-Toukに砦を築いている (Leclère, 1887a, pp. 29, 31; 1885年9月報)。3章3節に記した通り、このときはクオン以外にも多数の長が投降後に反徒団を再結成しており、和平に関してフランス側と反徒側の認識に齟齬があったと考えられる。4.4. 中国人海賊 反徒側にクアン・キエムという中国人海賊が

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