順天堂グローバル教養論集_第二巻_2017年3月(ISSN2424-0001)
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27海の反乱参加しているのは、まさしくタイ湾岸地域の特色であろう。フランス側は彼を「ラクザーRach Gia(現ベトナム領内)の虐殺事件13)の首謀者」と呼んでいる。彼は反乱に参加する前から、古い大砲で武装した2隻のジャンク船14)を使って、コムポン・サオムからコッ・トーチにかけての地域を荒らしまわり、商船を襲い、反徒たちに火薬や鉛を供給していた (Leclère, 1887a, pp. 21–22; 1889年7月?報)。 1886年5月にブン・ポー砦が陥落した後は、コッ・コンの背後に位置するプレーク・ユオンYuonを本拠地に、ノロドム王の権威が届かない自身の領土として、「コムポン・サオム川の向こう側」を支配した。この時期のクアン・キエムを指して、「スダチ・スレイモットSdach Sreimat(海の王)」と呼んでいる報告書もある。彼は自身の領土で税を徴収し、アヘンを密売し、2隻の武装ジャンク船を使ってシャムの港と交易していた (1887年9月報,10月報,1888年3月報,6月報,1896年5月報)。1889年半ばにノロドム王からコムポン・サオム知事に任命されたコムポートのバラット・スオスSousは、彼を恐れて現地入りを拒否した15) (1889年6月報,7月?報)。また1890年3~4月にプレーク・トナオトが海賊団16)に襲撃された際には、彼は自分の家17)があるリエムの住民たちに保護を約束している (1890年3月報,4月報)。 反乱から10年後の1896年5月にようやく、クアン・キエムはコムポン・サオム知事によって逮捕された。コムポート理事官府月報ではこのときの状況を、「人々は元スダチ・スレイモットに無関心で、プレーク・ユオン村の彼の周囲には5~6人しかいなかった」、彼は「老い疲れ」、「抵抗することなく」捕えられたと報告している。4.5. 偽王子 クアン・キエム自身がカンボジア王国の官人の地位やタイトルを称していた形跡はないが、少なくとも3人の偽王子を祭り上げている。第1の偽王子アン・ピムAngk Phim(王のおじ)は、王族を装うために、次のような演出をこらしていた。①「王の書簡のように赤い布で包まれた」書簡をプノム・サー砦に送り、身分に相応しい出迎えの派遣を要求した。クアン・キエムらはこれに応え、200人を派遣した。②砦に向かう行列では、4人の男性が担いだ輿に乗り、自身が任命した大臣たちに囲まれ、身近にノロドム王の姉妹ムチャス・サー・ウクMachas Sâ-Ouk王女とその夫セーナー・カムKhamを伴っていた。行列は4隊に編成し、それぞれ軍旗を持った男性を先頭に、輿の前後に2隊ずつ並列させた。手元には浄めの水を入れた焼き物の壺を置き、人を不死身にする力を持つという水を見物の人々に降りかけた18)。沿道の人々が加わったため、一行は1,000人以上に膨れ上がった。③当日は曇天で、彼が酷暑を避けるために曇らせたという噂が流れていた。しかし、砦に到着した後、プノム・ペンで彼と面識があり、真正のアン・ピム王子が「40年以上前に」死亡したことを知っていたバラット・ウムによって身分詐称が暴かれ、退去を余儀なくされた(Leclère, 1887a, pp. 22–25)19)。 クアン・キエムはその後、ポルPolという青年を、「ノロドム王が派遣してきた王子」に仕立てようとした。ポルは「知性と勇気がある」という理由で反徒たちに評判がよく、クアン・キエムは常に彼を連れ歩き、また村々に派遣して、村人を蜂起させる任務を与えた(Leclère, 1887a, p. 28)。さらに1886年9月報には、クアン・キエムがパントゥンPhantoung王子と称する人物を身近に置いていたことが報告されている。 メコン沿岸地域では、ノロドム王の権威を否定する立場をとった長たちは、王弟シーヴァッターを正統王とし、彼から官印を授けられ、彼の宮廷の誠忠飲水の儀式に参集した。シーヴァッターは、ノロドム王の即位の当初から、自らの王位継承の正統性を主張し、シャム王国と接するトンレー・サープTonle Sap湖北岸の

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