順天堂グローバル教養論集_第二巻_2017年3月(ISSN2424-0001)
30/156

28順天堂グローバル教養論集 第二巻(2017)森林地帯に、ノロドム王の権威が及ばない、独自の領土を構築していた(北川, 2014)。クアン・キエムもまた、シーヴァッター同様、シャム王国と接するコムポン・サオム地方の背後に、ノロドム王の権威が及ばない独自の領土を作り上げ、「海の王」と呼ばれていた。ただし王弟シーヴァッターと違い、王族でないクアン・キエムが住民を動員するためには、王に近い血筋を主張する偽王子を祭り上げる必要があったらしい。偽王子アン・ピムやポルの演出は、王族を直に目にする機会を持ちえない遠隔地の人々が、秀でた、煌びやかで超人的な威力を持つ存在として、王の血筋を認識していたことを示している。 さらにシーヴァッターや、クアン・キエムが祭り上げた偽王子たちの存在から、以下の可能性が導き出される。反乱が発生した地域の人々は、自身が居住する地域社会が、カンボジア王権を中心とする秩序のなかにあると認識しており、ノロドム王とその次弟シーソヴァット、末弟シーヴァッターらが属する特定の血筋にのみ、カンボジア王権の正統性が継承されることを認めていた。 前近代の東南アジアに広くみられるように、カンボジアにも王位継承順位を定めた法などはなく、複数の候補者が存在するのが常態であり、それぞれの時代の状況によって、そのなかから王が決定されていった。現在のカンボジア王国憲法でもなお、王位継承権者の規定は、アン・ドゥオンAng Duong王(ノロドム、シーソヴァット、シーヴァッターの父)とノロドム王、シーソヴァット王のいずれかの子孫である男性となっている。5. 結論 タイ湾岸の反徒団が階層構造を持った組織体ではなく、個々の長に率いられた集団のゆるやかな集合体であったこと、長の大半がカンボジア王国の官人を称していたことは、先論で扱ったメコン沿岸地域と共通している。彼らは官人の職権としてクメール語の文書を発し、住民を動員し、物資を徴収していた。官人の地位に正統性の裏づけを与えていたのは、カンボジアの王権であった。ただし、正統王の血筋に連なる王位継承権候補者が複数存在するため、反徒の長は自らの地位に裏づけを与える王族を選んだり、ときに創出したりすることが可能で、反乱は王位継承権争いという性格も帯びていた。遠隔地の住民には王族の真偽を判別することは不可能であったが、だからこそ反徒の長たちは、拝謁の経験を吹聴したり、「王の書簡」の存在や、自らが擁立する偽王子の威光を演出したりして、人々を納得させようとした。 一方フランス植民地権力は、1860年代中葉以降、ノロドム王と第2王シーヴァッターを擁するプノム・ペン宮廷にとって、最も有力な後援者であった。しかし、1880年代半ばから新たに理事官府が設置されていった地域の住民にとっては、フランスはあくまでも外来者であり、明らかに異質な文化伝統の担い手であるために、地域社会の秩序を保証し得る存在としては認識されず、むしろ秩序の破壊者として警戒されたのであろう。統一的な指導者や組織が存在しなかったにもかかわらず、反徒たちは反仏という1点で一致して行動し、広く現地社会の支持を得ていた。メコン沿岸地域では稲作農村地帯が反乱の拠点となっているし、タイ湾岸地域では反徒の勢力圏となったヴィエル・レーン湾周辺での村落人口の拡大が確認されている。 バラット・クオンの書簡に明らかなように、反徒にとっての和平とは、フランスの植民地支配を受け入れることではなく、フランスが王に領土を返還し、王権を中心とした秩序のなかに立ち還ることを意味していた。フランス側の軍事力では、地の利に優った反徒団を殲滅できなかった。メコン沿岸地域では、新任の知事たちが王の信任状をもって住民の支持を獲得し、反徒の長たちの勢力圏を縮小させていった。1892年にはシーヴァッターが森のなかで死亡した。タイ湾岸でも1889年にトレアン、ピエム、コ

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です