順天堂グローバル教養論集_第二巻_2017年3月(ISSN2424-0001)
31/156

29海の反乱ムポン・サオムに新知事が任命され、前2地方では反徒の長でもあった旧知事が罷免されて力を失った。コムポン・サオムでは、1896年に知事がクアン・キエムを逮捕して、ノロドム王の権威に服さない領域が消滅した。 以上のことから1885年反乱は、ノロドム王が王弟シーヴァッターらライバルに対して優位に立ち、それぞれの地域社会から正統王として承認され、第2王シーソヴァットがその後継者候補としての存在感を確立していく画期であり、カンボジア王権を存続させるべきことをフランス植民地権力に痛切に認識させることになった画期として位置づけられるべきではなかろうか。この反乱の30年後、1916年には4万人の農民がプノム・ペンに集結し、税などの負担軽減を直訴する事件が発生するが、彼らが自らの窮状を訴えるべき対象としたのは、実質的な権力者であるフランスの理事長官ではなく、シーソヴァット王であった(Chandler, 2008, pp. 187–191)。註 1)東北隅にカンボジアの最高峰アウラルAoral山(標高1,771 m)がある。 2)トカウThkov(30~35軒の中国人の家)、コッ・プダウKaoh Phdau(15軒の中国人の家)。 3)クバル・プレーク・クレーン、ヴィエル・ター・ニェート、コムポン・スマチ、ヴィエル・レーン、プレイ・ノップPrei Nob、リエムReam、スラエ・ルーSré-Leo。 4)プレーク・トムThom・ヴィエル・レーンでは3か所、プレーク・バンティエイ・プレイBanteay Preiでは10か所の堰が航路を阻んでいた。これらの堰は、川岸で最も大きな木を切り倒し、枝つきのまま川に落とし込んだものであった。バンティエイ・プレイ村にはクアン・キエム配下のスナーン・テオThéoが築いた砦、プレーク・バンティエイ・プレイ河口近くの左岸には反徒の関所跡が残っていた。 5)この後訪れたサー・ウクSa-Ucも、戦闘の結果、30軒ほどの小屋の大半が破壊され、ジャンクを持たないためにシャムに逃れられなかった人々だけが残されていた。 6)1872年にプノム・ペン-コムポート間の電信線が敷設され、現在の国道3号線の原型となる陸路が開かれた (Pavie, 1884, pp. 4–5)。 7)1887年3月にルクレールがコムポン・トラーチを巡察した際には、ニェートは召喚に応えず、姿を現さなかった。7月になってから、80人以上の配下を引き連れてコムポートを訪問し、ルクレールと面会した。10月にも500人を率いてコムポートを訪れ、プレーク・コムポート左岸に住むバラット・ムーMuの補佐を得て、6つの寺院の僧侶に衣服を寄進する儀式を行った (1887年7月報, 10月報)。 8)この報告書でニェートは、オクニャー・ピスヌローク・チュークとともに罷免され、後任には現バンティエイ・ミエス知事の元書記カエウKéoが任じられた。 9)彼は年に100ピクル以上の砂糖をアン・ドゥオン王に送っていた。砂糖工場は1889年時点でまだ稼働していた。10)1885年9月13日にセーナー・インInとともに理事官府に投降した(Leclère 1887a, p. 29)。11)クオンとの合流地点と日時を指定する内容。12)1886年10月報には、バラット・クオンがカムチャーイKam Chay(プレーク・コムポート右岸)で胡椒の税を徴収していると報告されている。13)フランスは1867年にラクザーを占領した。同年6月16日朝4時、30人の反徒が駐屯地を急襲し、フランス人全員を虐殺した。反徒たちは2隻のジャンクで脱出し、ホン・チョンHon-chongからハーティエン、フー・

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です