順天堂グローバル教養論集_第二巻_2017年3月(ISSN2424-0001)
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30順天堂グローバル教養論集 第二巻(2017)コックPhu Quocに向かった (Baurac, 1894, pp. 306–307)。14)1886年3月中半ばにも、中国人30人が乗り組んだクアン・キエムのジャンク船2隻がプレーク・トナオト河口に入港したという情報がある (Leclère, 1887a, pp. 32–33)。15)理事官のルクレールはこの報告書で、知事に銃20丁と各25発の銃弾を与えるよう提言している。16)海賊の指揮者はホン・ドゥックHong-Ducというアンナム人で、元反徒の長ティエンThienと同一人物と考えられていた。17)クアン・キエムはヴィエル・レーンに1軒の家を建て、妻の1人を住まわせていた (1889年12月報)。18)その他で不死身を主張した反徒には、クオンに接近したセーナー・テープTépという人物がいた (Leclère, 1887a, pp. 20–21)。19)『オクニャー・モントレイ・サンクリエム・トゥットの行動に関する情報』には、偽アン・ピム王子のその後の情報が含まれている。それによると、①彼を偽王子に仕立てたのはムチャス・サー・ウク王女とその夫セーナー・カムで、②彼の正体はチャウドックChaudoc地方(現ベトナム領内)出身のカンボジア人ムールMoulの子カエウKéoであり、③1889年9月時点で彼自身は、ローク・セーナー・カス・スラー・カエト・チア・ネアク・プオク・サッチャンLuc Séna Kas Sla Ket Chea Neac Puok Sachangというタイトルを称し、プレーク・チアPraek Yia地方に密使を送って、護符や印章を運ばせていた。④ヌットNutという名のシャム人が彼の義父となっていたが、それは全くの親切心と偶然によるもので、ヌットは「2年前」、「戦争の後」に、娘とともにカンボジアを去り、チャンタブリーに退いていた。付表1. 反徒の長たち名前 1アン・ピム王子4章5節参照 2オクニャー・スナーン・チューク4章1節参照 3オクニャー・ソピエ・プロム4章1節参照 4オクニャー・チム 5オクニャー・ピスヌローク・チューク3章1節、4章1節参照 6オクニャー・モントレイ・サンクリエム・トゥット1885~1886年に反乱参加1889年8月、ソヴァン、リエイ、ラック、オムが率いる反徒団を、1日2晩自宅に滞在させた。 7オムOm(Leclère, 1889) 8オムOmトモー・サーThma saサー・ウクでクアン・キエムに殺害される(Barbe, 1890) 9オン・ドック・ドゥムOng doc Dumチャウドック出身、コムポン・サオムの4人の長の1人(Barbe, 1890)10ギンGînあるいはゲンGênトゥック・ロオク、プーム・チヴィエPhum Chvéa、プーム・スオイSoyeのメー・スロック(Leclère, 1888a)11クアン・キエム12クララーピエス・ミエス3章1節参照13サオSaoカンボジア人、ヴィエル・レーン、ヴィエル・ミエス、チューン・コーCheung Kou、アヴァクAvacのメー・スロック(Leclère, 1888a)14サコー・チンSako Chin(1886年3月報)15サヴァト・マーSavat Mahあるいはサヴァト・マートSwat Matプレイ・ノップ(Leclère, 1887a; 1885年8月報)16セーナー・イン註11参照17セーナー・カム4章5節参照18セーナー・テープ註18参照19セーナー・トンTongあるいはトゥオンTuon(Leclère, 1887a; 1886年3月報)

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