順天堂グローバル教養論集_第二巻_2017年3月(ISSN2424-0001)
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319世紀の「医学」と「芸術」の対話1. はじめに 1848年、「ラファエロ前派兄弟団(PRB: Pre-Raphaelite Brotherhood)」と称する、若い芸術家のグループが誕生した。大英博物館に近いジョン・エヴァレット・ミレイ(Sir John Everett Millais: 1829–1896)の家で、ウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt)を含む、7人の若い芸術家によって結成され、「自然に忠実に(truth to nature)」をモットーに、自然のありのままを観察し、緻密な細部描写を目指した。ミレイは、最晩年の1896年にはロイヤル・アカデミー(王立美術院)の会長に選ばれ、現在は、ヴィクトリア朝時代を代表する画家として、美術史にその名を残している。 第1回万国博覧会がロンドンで開催された1851年前後、若き日のミレイは、のちにテート・ブリテン(旧称:国立イギリス美術館)を代表する常設コレクションとなる一連の傑作を生みだした。その作品とは、(1)《両親の家のキリスト(Christ in the House of His Parents)》(1849–1850)、(2)《マリアナ(Mariana)》(1850–1851)、(3)《オフィーリア(Ophelia)》(1851–1852)(図1)である。とりわけ、シェイクスピア(Shakespeare)の戯曲『ハムレット(Hamlet)』に登場する「オフィーリア」の瀕死の瞬間を描いたミレイの作品は、繰り返し大衆化された絵画イメージと結びついてきた。 一例を挙げてみよう。夏目漱石のロンドン留学の後に書かれた『草枕』(1906)では、謎の女性、那美とミレイの《オフィーリア》のイメージが重ね合わされている。夏目漱石は、主人公の西洋画家「余」を通して、《オフィーリア》の表情について、次のように書いている。「何であんな不愉快な所を択んだものかと今まで不審に思っていたが、あれは矢張り画になるのだ。(略)痙攣的な苦悶はもとより、全幅の精神をうち壊わすが、全然色気ない平気な顔では人情が写らない。どんな顔をかいたら成功するだろう」と(漱石,2016 [1906],90–91頁)。果たして、ミレイはどのような場所で、どのような図1. ミレイ、《オフィーリア》、1851–1852、油彩画、テート・ブリテン所蔵、出典:Smith (2007) p.69

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