順天堂グローバル教養論集_第二巻_2017年3月(ISSN2424-0001)
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6順天堂グローバル教養論集 第二巻(2017)の過剰さを指摘しながらも、《両親の家のキリスト》には「きわめて多くの優れた点」があるとして、むしろ評価している(Anonymous, 1850a)。2.2. ロイヤル・アカデミーの病理学の展覧会 『イラストレイティッド・ロンドン・ニュース』誌の評価とは逆に、ミレイを遠回りに非難した雑誌が『パンチ』誌(1850年5月18日号)であった。「ロイヤル・アカデミーの病理学の展覧会」と題された諷刺の一部を、原文に即して以下、抜粋してみたい。この作品の興味深い点は、純粋に病理学的であるということだ。絵の中の人物たちは、瘰癧(るいれき:結核性頸部リンパ節炎)か甲状腺腫の病気を単純に図解している。痩せ細った体や、しなびた脚、腫れあがった足首は、この病態によくある特徴を示している。(略)技巧的には申し分ないので、この紳士(ミレイ氏)が自身の能力を、『クーパーの外科事典』の図解に生かさないのだとしたら、誠に残念なことである(Anonymous, 1850b)。 『パンチ』誌は、「病者の身体」の「聖家族」を前にした観者の混乱や不安をなんとか記述しようとして、美術を語るための語彙を医学用語に置き換えているのである。 ここで言及されている「クーパー」とは、外科医、解剖学者のアストリー・クーパー(Sir Astley Cooper)である点が興味深い。ガイ病院に勤務し、ジョージ4世の外科医も務めた19世紀イギリスを代表する医師であった。当時、ミレイは大英博物館のすぐそばのガウアー通りに両親と住んでおり、リンカーンズ・イン・フィールズ地区の王立外科医師会(ハンター博物館がある)も徒歩圏内である。多様な博物館が点在するロンドンの都市空間も、ミレイの想像力を刺激したのだろう。 本来、《両親の家のキリスト》に散りばめられた、釘、鋏、金槌、梯子などの大工道具一式は、キリスト教図像学で「キリストの受難具(アルマ・クリスティ)」を暗示する。それらを「クーパー手術鋏(クーパーに由来する)」に重ね合わすことができるのだとすれば、大工道具が手術道具に、ヨセフの作業台が手術台に見えてくる。しかも、ミレイの想像力の鋏によって、登場人物が切り貼り(コラージュ)されたように配置されているので、遠近法の空間が持つ奥行きが欠けている。 以上、ミレイは、古典的なキリスト教図像を換骨奪胎して、《両親の家のキリスト》を平板に描いたが、『パンチ』誌は、さらにクーパーの医学書を引き合いに出しながら、《両親の家のキリスト》を換骨奪胎した。つまり、ミレイの描画力がいかに秀逸でも、クーパーの医学書の図解には到底かなわない、と皮肉っているのである。3. 《マリアナ》(1850–51)3.1. ベルの『表情の解剖学と哲学』をめぐって 1851年、ミレイの次作《マリアナ》(図3)がロイヤル・アカデミー展覧会に出品・展示された際、前述の『パンチ』誌は、翌年の記事(1851年5月21日号)でも《マリアナ》が「身体の筋肉を伸ばして、欠伸をする姿」であるとして、ミレイが描いた病理性(神経衰弱、身体疲労)をまたもや諷刺した(Anonymous, 1851)。では、実際にミレイは、どのような医学教本(解剖学)の複製図版を手本にしたのだろうか。本章では、直接ミレイが参考にしたとされる、エジンバラの解剖学者、外科医、画家チャールズ・ベルの著作に注目していく。 1806年にロンドンのロングマン社より上梓されたベルの『絵画における表情の解剖学試論(Essays on the Anatomy of Expression in Paint-ing)』は、19世紀にわたって何版も重ねられ、絶版になることはなかった解剖学の本である

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