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2008.04.04 ()
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『仁と不断前進をモットーに創立170年』が大学時報に掲載

大学時報 No.319 Mar.2008(P.114-119)「日本私立大学連盟」発行
わが大学史の一場面 ― 日本の近代化と大学の歴史
酒井 シヅ 順天堂大学客員教授
本年、順天堂大学は創立170年を迎える。創立者佐藤泰然が江戸薬研堀に蘭方医学の塾、和田塾を開いた天保9(1838)年を創立の年として数えて、今年は170年にあたるのである。当時はシーボルト事件から10年目、幕府の蘭学への弾圧が極めて強まっていた。創業の翌天保10年に、蘭学者渡辺崋山、高野長英らが捕縛された蛮社の獄が起こった。蘭学者佐藤泰然も幕府の町方のブラックリストに載っていた。
ところで、波乱に満ちた170年の歴史は大きく三期に分かれる。一期は江戸時代から明治初期の順天堂塾時代、二期は明治・大正・昭和初期の順天堂医院時代、三期は昭和19(1944)年、順天堂医学専門学校の開校から現在の順天堂大学までである。

一 蘭学塾時代

天保9年、3年間の長崎遊学を終えて江戸に帰った佐藤泰然は、長崎から同行した弟子と共に薬研堀に和田塾を開いた。泰然はそのころ、和田姓を名乗っていたからである。弟子はのちに蘭学界で活躍した林洞海、三宅艮斎らであった。医業は盛業を極めた。しかし、5年後、江戸を高弟に任せて佐倉藩(現在の千葉県)の求めに応じて移住している。
このとき和田から佐藤に姓を改めた泰然は、天保14年10月に「順天堂」を佐倉本町に開業した。そのとき順天堂と命名した扁額が現存する。幕末に全国に名声が及んだ佐倉順天堂の幕開けである。
佐倉藩は、藩主堀田正睦が老中として開国に重要な役割を果たしていたが、西洋堀田とあだ名がつくほど、西洋へ強い関心を抱いていた。泰然は藩の学問所で蘭学・医学を教えると同時に、堀田正睦のブレーンの一人になったのであった。
残念なことに、泰然の佐倉順天堂には門人帳がない。恬淡とした性格の泰然は門人帳を作らなかったのだろう。しかし、佐倉順天堂に学んだという医師が全国いたる所にいる。また、泰然には訳著が多かった。手術記録もある。これらから泰然が当代まれな西洋外科医であったことがわかる。
泰然を継いだ二代目堂主佐藤尚中は泰然の高弟であった。しかし、泰然の次男は松本良順である。良順の活躍は、吉村昭等の小説でもよく知られるが、泰然は実子は他家に出して、優れた弟子を後嗣に選んだのであった。その後、順天堂では実子を継承者としない不文律がある。
尚中ははじめ山口舜海を名乗り、養嗣子となって佐藤舜海と言ったが、明治になって名を尚中と改めた。舜海は蘭書を読んで前人未踏の手術も果敢に行い、優れた外科医であったことが知られる。だが、万延元(1860)年に長崎に留学して、ポンペから医学を学んだことで、舜海の医学は革命的に変わった。そこで教えていた近代医学は日本の蘭学と全く違っていた。杉田玄白以降の蘭学はシーボルト来日によって大いに発展したが、しょせん、欧州の伝統医学の域であった。1850年以降の西洋近代医学は科学的医学に変わっていた。その成果がポンペによってもたらされた。ポンペ滞在5年の間に初めて近代医学教育が実施されたが、舜海はその洗礼を受けて、佐倉に戻ると早速、佐倉の医学改革を実施した。順天堂での教育だけでなく、佐倉の医療制度の改革も行った。しかし残念なことに、その効果を見る間もなく舜海は新政府に召し出され、廃藩置県で藩は力を失った。

二 東京大学と順天堂

明治2(1869)年、舜海は明治政府の強い要請により上京して尚中と名を改め、新政府の医学教育制度の最高責任者、大学大博士に就任した。そのとき教員の多くが順天堂塾の出身者であった。
ところが翌3年、明治政府は大学の医学教育の指導者をドイツから迎えることを決定。明治4年、ドイツから二人教師が来日して、東校の医学教育を抜本的に改め、少数精鋭教育を始めた。そのとき尚中は日本の実情を無視した医学教育改革に反発し、自ら一切の官職を去って、集まった患者のために東京に私立病院を開院した。同時に、東校から追われた医学生を教育した。このときが東京の順天堂の始まりとなった。

三 順天堂医院時代

順天堂医院時代は好調な始まりを見せたが、関東大震災の罹災と第二次世界大戦の苦難に置かれた時代でもあった。
明治6(1873)年、下谷練塀町で開院した順天堂はたちまち満床となった。そこで低地を避けて、湯島の高台に新たに順天堂医院を開院した。「医院」としたのは、尚中が大学東校時代、戊辰戦争のころから使われてきた「病院」は単に病者を集めておく所の意味である。東校では病者を治療するところであるから「医院」と称すべきだ、と主張して、文部省をして「医院」に改めさせたからである。爾来、昭和23(1948)年、新憲法下で制定された医療法で20床以上を病院と定めるまで、国立の大学付属病院の正式名は付属医院であった。順天堂では、尚中の遺命を守り、現在も大学付属順天堂医院を正式な名称としている。また、順天堂大学の学是は「仁」であるが、これも尚中の遺命である。
尚中が病に倒れた明治8年、後継者佐藤進はウィーンで高名な外科医ビルロートのもとで研修していた。進は佐藤尚中の甥で、養嗣子であった。戊辰戦争では官軍側の軍医として活躍したが、このとき応援した英人医師に見劣りしたことに発奮して、明治2年、パスポート第一号をもって渡欧、ベルリン大学医学部に入学した。正式な課程を収め、明治7年、最優秀の成績で卒業。アジア人として初めて医学士の学位を取得した。ベルリンからウィーン、パリとさらに研修を重ねる予定であったが、岳父の発病でやむなく帰国。新築したばかりの順天堂医院に戻り、患者の治療、塾生の教育にあたった。そのときの講義録は『順天堂医事雑誌』と題して明治8年から出版された。ドイツの経験を踏まえた治療記録を載せた臨床医学雑誌で、日本人による臨床医学雑誌の嚆矢をなすものであった。
欧州で最新の医学を学んだ進が手術や講義を行うという情報から、全国から医学徒が順天堂に集まった。彼らは自ら研究会を組織し、順天堂医事研究会と名乗った。それが佐藤進院長に公認されて、機関誌『順天堂医事研究会雑誌』を各週に発刊し、全国に頒布した。この編纂にあたり、手術の記録など診療話題を筆録したのが、北里研究所に行く前の野口英世であった。英世は済生学舎で学び、医術開業試験に合格してほどなく、順天堂に就職して臨床医学の研鑽をしたのであった。なお、現在の順天堂大学の『順天堂医学』は、明治20年からの『順天堂医事研究会雑誌』の号数を継承している。
佐藤進がドイツで学んだ医学知識は、順天堂の外からも求められた。最初が明治10年の西南戦争のときであった。進は一等軍医生に任じられ、大阪陸軍臨時病院で傷病兵の治療を指揮した。戦後は陸軍軍医本病院で軍医の教育にあたり、日清・日露戦争では陸軍軍医総監として広島予備陸軍病院に勤務し、日清戦争和平条約締結時の清国大使李鴻章狙撃事件では、進に傷の手当てが任され事なきを得て、国民は安堵したのであった。日韓合併では、大韓医院の初代院長となって韓国の衛生指導にあたった。これらの活躍によって、日本人十傑の一人に選ばれたのであった。明治21年に初めて医学博士が誕生したが、進はその一人でもあった。
進が軍医として活躍していた間、順天堂は内科、外科の二人の副院長が塾生の教育、地域医療の指導などに活躍し、平和時には進が院長に戻り産科、耳鼻科、眼科、皮膚科、泌尿器科、Ⅹ線科など各科を全国に先駆けて開設して、順天堂を日本随一の私立病院として充実させたのであった。なお、明治15年、三人の医学士がいれば甲種医学校となり、卒業生はすべて無試験で医師免許を得た制度が始まったが、順天堂の主な医員はすべて東大卒の医学士という、レベルの高い病院であった。日本の私立病院の先導的役割を担ったのであった。
進の後継者に、東京大学卒の医学士河合達次郎を迎えた。養嗣子の条件は勉学に優れ、何よりも健康であることであった。病人に接する医師は健康でなければならないことが進の主張であった。達次郎は、柔道をたしなんで幼弱な身体を健康体にし、東大時代はボート部の選手として活躍した。ボート部の後輩に東竜太郎・俊郎兄弟がいたが、この出会いが、のちに順天堂が健康大学となるきっかけとなったのである。
進の没後、大正12(1923)年の関東大震災によって順天堂は大半を焼失した。栄光に満ちた歴史を再興するため、達次郎を先頭に一丸となって再建に立ち向かった。しかし、昭和恐慌、日支事変と時局は悪化するばかり。医局員の出征、物資の不足などさまざまな悪条件の中、達次郎は東俊郎を医局員に迎えて、健康管理、臨床検査を独立させた新しい内科を設けて、医院を抜本的改革することを志した。

四 順天堂大学時代

昭和16(1941)年、震災以後、活動が停滞していた順天堂医事研究会に東俊郎の内科を付属させて、財団法人順天堂医事研究会を設立した。戦局は悪化の一途をたどっていた時代、政府は軍医促成のために医学校を設置するという情報を得た達次郎は昭和17年、財団法人順天堂医事研究会と順天堂医院を母体に、順天堂医科大学設立申請を文部省に行った。昭和18年12月、文部省は、医科大学設立は認めないが医学専門学校としてなら認可する条件を出し、それを受けて順天堂医学専門学校が誕生した。そのとき政府は、軍医促成と銃後の女医養成のために各県に医学専門学校を設置したが、私立医学専門学校として認可を受けたのは順天堂だけであった。
昭和19年4月、順天堂医学専門学校が開校した。順天堂は江戸時代から医師を養成してきたが、文部省の管轄下に入ったのはこのときが最初であった。戦中の全く物資不足の時代、新たに校舎を建てる木材もない。最初の授業は女子美術専門学校で始まった。実は、女子美術専門学校の草創期に順天堂が深く関与していた。校長佐藤志津は佐藤進夫人であった。女子美の付属女学校は佐藤女学校と呼ばれたのは進夫人が創設したからである。女子美の歴代の理事長は順天堂の院長であるという時代が続いていた。順天堂医学専門学校の理事長が女子美の理事長でもあったのである。
昭和20年、戦後、医学専門学校制度は廃止されることとなった。そのとき、すべての専門学校はA・Bに区分され、Aのみを存続させた。順天堂医学専門学校はAと認定され、五年制の医学専門学校となって、昭和26年に専門学校の歴史を閉じた。
順天堂は昭和21年5月15日に医科大学として認可され、校長に達次郎の後継者と目された有山登が就任した。戦後の混乱の中、校地の獲得に苦心したが、千葉県津田沼町の元陸軍騎兵連隊跡を取得し、翌22年6月、予科を開校した。学生のみならず教員も住宅難、生活難の時代であった。大学は旧兵舎を教室、学生寮、職員寮に大改造して、教師と学生が文字どおり寝食を共にする大学が始まった。現在、順天堂大学の特色となっている学生寮「啓心寮」はこのようにして始まったのであった。
昭和23年、学制改革によって六三三制が始まり、順天堂医科大学は翌24年の学部二回生をもって廃止。新制大学を誕生させねばならなくなった。しかも、新制度では医学部は専門学部だけからなり、医学進学課程は四年制の他学部に設置せねばならなかった。順天堂大学に新学部を設置しなければ、医学部だけの単科大学となり、他大学の医進課程修了者を受け入れざるをえない。そこで大学当局は新学部として体育学部設置を決断したのである。体育学部設置を強く主張したのは東俊郎であった。東は戦後、文部省に新設された体育局の初代局長を務め、スポーツ科学の発展を痛感していたのである。しかしながら、急速なインフレ下で大学の財政状態が極めて悪かった。医学部と体育学部を開設するには多大な経費を必要とする学部であったのである。また体育学部を医科大に置くということは前代未聞の構想である。学内から強い反対もあった。しかし、理事長達次郎の勇断により、健康大学順天堂が誕生したのであった。
体育学部は昭和26年に発足したが、ほとんど無名であったために滑り出しは極めて厳しいものであった。開部当初、教員は全国を回って学生を集め、卒業生を売り込んだ。なかなか成果が上がらないために体育学部廃止にまで追い込まれたこともあった。だが、教員・学生が一体となって、不断前進をモットーに努力し、全国インターカレッジ陸上大会や箱根駅伝で好成績を上げ、体育学部の存続を不動のものにしたのであった。
昭和27年、医学部の学科設置が認可されて、医学部一回生を迎えた。医学部は順天堂医院のある本郷キャンパスを拡張し新校舎を建て、病院の増改築を繰り返し続けて、最新の医療設備・制度を怠りなく導入した。例えばICU、中央検査室設置など他大学に先んじて開設した。診療はいうまでもなく、病院食、病院のアメニティへの配慮、職員の患者への接遇はいつも高い評判を得てきた。
現在、順天堂大学には附属病院が6病院ある。本院以外で最初に出来たのは静岡病院である。昭和42年に伊豆長岡の町立病院を引き受け、経営を立て直して、昭和50年に財団法人順天堂災害医学研究所を付設した。診療・研究を兼備した静岡病院は静岡県東部の基幹病院となっている。
昭和59年に千葉県浦安市に附属病院順天堂浦安病院を開設した。千葉県と東京都東部を診療圏とした地域医療と先端医療を行うモデル病院を目指したのであった。
一方、本郷キャンパスでは、昭和3年、関東大震災直後に建てた本院が老朽化したために全面改築を必要としていた。昭和63(1988)年に順天堂創立150年を迎えるに当たり、150年記念事業として、本館新築、体育学部のキャンパス移転、越谷病院の設置、医療短期大学の開設を計画して、昭和61年から準備に入った。
記念事業は、かねてからキャンパス拡張を願ってきた体育学部が、千葉県印旛村平賀に新キャンパスを得て、昭和63年に習志野キャンパスから移転し、さくらキャンパスとして誕生したことから始まった。新キャンパスはさまざまな運動施設の拡充し、設備の新設によって体育学部の新時代が始まった。平成4(1992)年、体育学部をスポーツ健康科学部に改組し、陣容を整えて、初志であったスポーツ科学の追究を強化するとともに、スポーツ界の雄を輩出し、幅広い分野で活躍している。
次の記念事業は平成2年、昭和43年に埼玉県越谷市に設置した財団法人順天堂精神医学研究所の附属病院を、精神病治療並びに精神医学研究を主体とした附属病院順天堂越谷病院の発足をもって果たした。
順天堂は昔から看護師が高い評価を得てきたが、それは明治29年、全国的に極めて早い時期に順天堂医院で看護婦養成を始めていたからである。特に戦後、看護制度の変遷に伴って改変してきたが、次の記念事業として、看護専門学校を短期大学にすることを決定した。短期大学は本郷キャンパスを離れ、平成元(1989)年、千葉県浦安市に開設した。しかし、看護界および社会において看護教育のレベル向上が強く求められている。順天堂は遅きに失したが、平成16年に医療看護学部を発足させた。
創立150年事業は、平成5年に順天堂医院新本館の完成をもって終わったが、本院では全国でもいち早く特定機能病院の指定を受け、いろいろなモデル事業を展開している。
平成14年、東京都は江東区に江東高齢者医療センターを開設し、その運営を順天堂大学に委託した。2年間の試行期間のあと、順天堂大学医学部附属順天堂東京江東高齢者医療センターとなって、高齢者介護やアルツハイマーなどの研究センターとなっている。翌15年には練馬区の依頼を受けて、高野台に開設した練馬病院の設計段階から順天堂は関与し、附属練馬病院として開院した。現在、医療過疎の練馬地域の熱い支援と期待を受けて、予想以上の発展を見せている。
こうして平成20年現在、医学部は本院、静岡、浦安、越谷、東京江東高齢者、練馬の6附属病院を擁するに至った。これにスポーツ健康科学部、医療看護学部の2学部が加わり、健康総合大学院大学として順調な発展をしている。
現在の順天堂大学を特徴づける研究組織の充実、財政面の改善は、平成12年に小川秀興学長就任と同時に始まった。新学長は全順天堂の運営点検から始めて、特定の限られた職員に任されていた運営を、職域を横断した20のプロジェクトチームに検討させ、互いに虚心坦懐に知恵を出し合って、効率的な運営に改めた。その結果、大学の改善を多くの職員の身近な問題としてとらえられるようになったのである。
小川学長は平成16年に理事長に就任したとき、学校法人順天堂の三大マニフェストとして、①危機管理体制の整備、②財務状況の公開、③広報活動の充実を掲げた。広報活動によって、順天堂の職員は誰でも大学の経営状況を知り、危機管理に備える立場を自覚し、結果として職員の順天堂への帰属意識を高め、責任ある行動を促すことになった。
平成20年、順天堂は医学部学生の学費値下げを行った。これは小川学長になってから二度目の値下げであり、念願の私立大学医学部の学費の最低に近づいたのである。
また、平成19年、学校法人順天堂は、わが国最大の格付け機関である株式会社格付投資情報センターから「AA」の格付けを得たことを報告して、この稿を終わる。