コラムvol.1


 免疫という言葉はラテン語の immunis(「課役,税を免れる」の意)が語源とされています。 中世ヨーロッパで大流行したペスト禍において、奇跡的に助かりその免疫を得たキリスト 教騎士や修道士に対し、この現象を「神のご加護」と考えたローマ法王が課役や課税を免除 したことに由来しています。
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 一方で、免疫の概念自体はかなり古くからあったと言われています。度々言及されるのが紀 元前 5 世紀のアテナイの歴史家トゥキディデスの『戦史』の中の記述です。「疾病から命 をとりもどしたものたちは(略)一度罹病すれば、再感染しても致命的な病状に陥ることは なかったのである(久保正彰訳 『戦史(上)』 岩波文庫,1966 年,p.239)」。少なくとも既 に紀元前 5 世紀のアテナイでは免疫の概念は認識されていたということになります。
 そしてジェンナーの登場によってそれまで曖昧であった免疫の概念が輪郭を得て、ここに近代免疫学の幕が開けるのです・・・。
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1. 免疫学の父ジェンナー

 免疫学の父とされ、他の誰の功績よりも人命を救ったと評されることのあるエドワード・ ジェンナー(1749-1823)。彼は、乳しぼりをする牛と接して牛痘(ぎゅうとう:牛痘ウイルス感染を原因とする感染症)に罹ったことのある人間 は天然痘に罹らないという農民間の言い伝えや瘡蓋(かさぶた)を粉にして鼻から吸い込むという中国 のまじない的な瘡蓋療法に発想を得て、牛痘を人に接種することで天然痘予防を成功させ た人物です。
 天然痘の歴史は古く、最も古い記録では紀元前 14 世紀にまでさかのぼります。日本において は 6 世紀に大陸から伝わったとされ、江戸時代には 5 歳以下の乳幼児の 5 人に 1 人が天然痘で命を落とし、3 人に 1 人は天然痘の疱瘡(ほうそう)の痕があるという深刻な感染症でした。 「日本では江戸末期に神田於玉ヶ池の所に種痘所(東京大学医学部発祥の地)を造って何百人という人の命を救っています」(垣生先生)



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 ジェンナーが種痘を発表した 1796 年当時、イギリスでは約 45,000 人が天然痘のために命を落としていました。しかし、ジェンナーの登場によってイギリスのみならず同じく深刻な被害のあったヨーロッパ諸国にも種痘は数年で広がり、めざましい成果をあげました。長年人々を苦しめた天然痘を制し、ここに人類初のワクチンが誕生しました。 「この現象をサイエンティフィックにどういう意味があるのか実証し、ジェンナーの偉業を称えて、牛痘のラテン語 Variolae Vaccinae から名前をとって「ワクチン」と呼ぶことに決めたのがパスツールです」(奥村先生)

2. 預言者パスツール

 微生物が病原菌である可能性を示唆して狂犬病やニワトリコレラワクチンを発明し、近代細菌学の開祖とされているルイ・パスツール(1822-1895)。今日私たちが飲んでいる牛乳やビールの腐敗を防ぐ低温殺菌法ーパスチャライゼーションーを考案したのもパスツールでした。

 「彼の存在は桁違いに大きい。まだ菌しかわかっていない時代において、菌よりももっと細かいものがあるだろうと、つまりウイルスの存在を予言しています。さらには抗生物質の存在も予言している。彼がサイエンスの基盤を作り、我々はその彼の理論上で動いているに過ぎず、今の新型コロナウイルスのワクチンもパスツールの原理をそのまま使っているわけです。その業績の大きさは計り知れません。当時ノーベル賞はまだありませんでしたが、もしあったとすれば10回、いや20回は受賞できるくらいの偉業を成し遂げています。もし彼に匹敵するほどの天才がこの世に現れたとしたら、恐らくがんを克服することさえ可能になる、それほど生物学的にすごい人です」(奥村先生)
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パスツールはこの特殊な形のフラスコを用い,自然発生説(生物が無生物から生まれることがあるという説)が誤りであることを証明した(白鳥の首の実験)。
 これは自然科学における彼の最も大きな業績と言われている。現在このフラスコはパスツール研究所に展示されている。



 現在の学問の世界では、自らの学説を論文にまとめて発表することでその業績が認められるシステムが構築されていますが、パスツールの生きた時代は論文発表などはなく、公開実験によって自分の学説を証明することが求められた時代でした。
 
 「彼は実験の大家でもありました。当時は階段教室に世界中の学者を集めて公開実験をし、菌の培養もそのような場で学者たちの目に見える形で行われています。パスツールはこの公開実験がとても上手な人でした。多くの人が見ている前で手際よく上手に実験ができなければ認めてもらえない,そういう時代を乗り越えた人でもありました」(垣生先生)

 パスツールが公開実験でその名声を欲しいがままにしているころ、ドイツの片田舎で顕微鏡を用いて後に大きな偉業を成し遂げる人物が細菌の研究に没頭していました。それがコッホです。

3. コッホの登場

 炭疽菌、結核菌、コレラ菌を発見し、パスツールと並んで近代細菌学の開祖と評されるのがロベルト・コッホ(1843-1910)です。コッホは3年間の炭疽菌の研究成果を公開実験で発表し、一つの微生物と一つの疾患を完全に関連付けることに初めて成功しました。同時に、その証明の指針となる「コッホの三原則」を提唱しています。

 コッホが発見した炭疽菌のワクチンの開発を急いだのはあのパスツールでした。コッホの公開実験から5年後、パスツールは予備実験が不十分な状態で羊や牛を用いた炭疽菌ワクチンの公開実験を行っています。結果的にこの実験は大成功で、このニュースは世界中を駆け巡りました。
 しかしこのワクチン成功において、パスツールはコッホの研究に一切触れていません。これは普仏戦争でフランスがドイツに敗北し、愛国主義者のパスツールがドイツに対して嫌悪感を抱いていたからだと言われています。
 コッホはその後、結核菌の発見、細菌の染色法、新たな顕微鏡の開発、細菌の純粋培養法の考案など、細菌学の基礎を確立する様々な技術を考案し、後にこの業績が評価されてノーベル賞を受賞することになります。1884年には遠征先のアレキサンドリアから持ち帰った材料の中からコレラ菌を発見し、コッホの名声は不動のものとなりました。その翌年にはベルリン大学の教授に就任し、この偉大な研究者の元に世界中から細菌学を学ぶ研究者が集うことになります。その中の一人が日本が誇る細菌学者、北里柴三郎でした。


4. 偉大な細菌学者 北里柴三郎

 血清療法の開発やペスト菌の発見など、日本細菌学の父とされる北里柴三郎(1853-1931)。 北里はコッホがベルリン大学の教授に就任した翌年にコッホ伝染病研究室に入門しています。北里はコッホに与えられたチフス菌やコレラ菌の課題を着々とこなし、それまで誰も成功しなかった破傷風菌の純粋培養に取り組むことになりました。そしてドイツに来て3年目、北里はその難題を見事にクリアし、その翌年には動物を使ってその血中で作られる抗体を治療に用いる血清療法を発明しています。

 「Aというものを身体につけておくとAにかからないというパスツールのワクチネーションの概念によって、どんな細菌もそれで克服できるのではないかと当時の細菌学者は考えていました。ですが、結核菌などはものすごく大きくて、その方法では絶対にうまくいきません。一番うまくいったのは北里たちが扱った毒素を出す菌、破傷風やジフテリア、あとは蛇毒などです」(奥村先生)

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 血清療法を発明した年、コッホの研究室にやってきたのがエミール・ベーリング(1854-1917)でした。

 「ベーリングはコッホの助手として北里と共同研究を行い、後に北里・ベーリング連名で血清療法に関する論文を発表して、それが基になってベーリングはノーベル賞を受賞しています。残念ながら北里は受賞できませんでした。政治的な問題も絡んでいたようですが、 彼が偉大な細菌学者であることに違いありません」(奥村先生)

5. 世界初の試み、新型コロナワクチン

 ジェンナーによる人類初のワクチン発見から現在まで、様々なワクチンが開発されてきました。ワクチンにはいくつかの種類がありますが、現在最も使用されているのはジェンナーが発見したものと同じ、実際の細菌やウイルスを使ったワクチンです。麻疹(はしか)や風疹(ふうしん)のワクチンはこれにあたり、生きたウイルスの毒性を極力抑え、免疫が作れるぎりぎりまで弱めたものを接種します。

 これに対し、現在日本で使用されている新型コロナウイルスに対するワクチンは、ウイルスそのものではなく、人工的に合成したウイルスの遺伝子を用いる新しいタイプのワクチンです。ファイザー社やモデルナ社の新型コロナウイルスワクチンはRNAワクチンと呼ばれ、人への接種が認められたRNAワクチンとしては世界初となります。

 「麻疹の場合は、一度ワクチンを接種し弱毒化された麻疹ウイルスに感染すると、私たちの体の免疫細胞はそれをずっと覚えているので、免疫は一生続きます。ですが、コロナウイルスのようないわゆる「風邪」のウィルスは、一度感染しても私たちの身体の免疫細胞はすぐに忘れてしまいます。だから何度でも罹患してしまうわけです。魅力的で印象的な女性は一生忘れなくても、今朝電車で見かけた女性のことはすぐ忘れてしまいますよね。それが麻疹と新型コロナウイルスの違いです。ウイルスを何でも同じように免疫細胞が記憶できると思ったら大間違いなんです。でも、もし電車で見かけた女性に奇抜な髪形や特徴的な化粧を施せば印象に残りますよね。
そうやって工夫し免疫細胞がウイルスを覚えやすくしているのがRNAワクチンです。今回のこのRNAワクチンで抗体の産生が2年続くか3年続くか、どれくらい続くのか見ものですね」(奥村先生) 

 世界初のRNAワクチンの効果に期待を寄せる一方、その効果にあやかれない人々が一定 数存在することを忘れてはなりません。臓器移植患者さんです。 

 「免疫抑制剤を使用している臓器移植患者さんにはワクチンが非常に効きにくいことが報告されています。これは非常に大きな問題です」(奥村先生、垣生先生)

 ジェンナーを発端とする近代免疫学の進歩によって多くの人命が救われてきましたが、この先どんなに素晴らしいワクチンができたとしても、移植の拒絶反応を抑え込むために強い免疫抑制剤を使用し続けなければならない臓器移植患者さんに対する効果は不十分です。移植の拒絶反応は人体で起こりうる最も強力な免疫反応であり、その免疫反応を抑えこむ薬を使用する以上、その恩恵に浴することができない運命を背負っています。しかし、もし免疫寛容を誘導する治療によって免疫抑制剤を使用する必要がなくなれば、普通の人と同じようにワクチンによって抗体が作られ、感染のリスクが下がります。それに伴い生活の質も格段に上がります。私たちはそんな日が来ることを願わずにはいられないのです。
vol.1_4_1 (002)貪食・抗原提示:
免疫細胞が菌やウイルスなどを取り込んで分解した後(貪食)、その断片を自分の細胞の表面に提示して免疫反応を活性化させること(抗原提示)。
vol.1_4_2 (002)誘導型抑制性T細胞:
臓器移植を受ける患者さんと、そのドナーの方の免疫細胞から作られる細胞製品。免疫寛容を誘導する働きが期待されている。現在、実際に患者さんに使用していただき、効果と安全性を調べる医師主導治験を実施している。