順天堂医院の今昔
Story 2 順天堂醫院での病理解剖
順天堂が湯島に病院を開いたのは明治8年(1875)。それ以来、順天堂ではじめて行われた出来事はたくさんある。病理解剖もそのひとつであった。佐藤進がヨーロッパ留学から帰国した翌年、明治9年のこと、進が治療した講談師伯円の子供が病重く不幸な結果になった。すると、講談師伯円かわが子の局所を解剖して研究に役立てて欲しいと申し出た。解剖それ自体、滅多に行われない時代の申し出に、進はいたく感動して、東京府に解剖許可を申請した。ところが、衛生局の当事者は私立病院の解剖は前例がないと、言を左右して許可しない。
進がベルリン大学に在学中、ある教授から日本では病理解剖が行われているか否かとたずねられ、ないと答えると、それは医学の進歩を妨げることだ、帰朝したら旧習を破り、実行することこそ医学上もっと急ぐべきことだといわれていた。その言葉がいつも胸にあった進は、将来の医学を考えると、講談師の申し出をぜひ実現されなければならないとの思いを強くした。ドイツ留学中に知り合った大久保内務卿をたずね、病理解剖の重要性と東京府の役人の不誠実な態度を述べると、黙って聞いていた大久保卿はしばらくして、承知したと答えて、他にいうことはないかとたずねた。進はホッとして、ないといって帰宅した。翌日、東京府知事からかつて出した願書が朱書で「願の趣聞き届け候事」と加筆して届いた。その結果、病因が明らかになり、講談師伯円の思いも果たしたのであった。これが私立病院での病理解剖のはじまりであった。順天堂は伯円に感謝状を贈り、その篤志を激賞したのだった。