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順天堂医院の今昔

Story 7 関東大震災前後の評判

大正12年(1923)9月1日の関東大震災で、順天堂はほぼ全焼した。再建されたのは、それから5年後、昭和3年(1928)のことである。その頃に出版された「東京日日新聞社編大東京繁盛記・山手編」(1999年復刻)に作家徳田秋声が本郷界隈を次のように語っている。「本郷に2大病院がある。帝大医科付属の病院と順天堂医院であるが、一つは官府的で一つは平民的である。帝大の外来は惨めで、どうかすると学生の実験材料などにされるが、営利的でないだけに縁引きにある者にとっては頗る調法である。順天堂は外科を以て鳴っているが、震災前までは大抵の科が具備し、それぞれ専門の権威が控えていた。震災後ようやく新建築が、全部か一部かわからないが、かなり完備したものが出来ているらしい。自分は東京中この病院ほど勉強している病院は少ないだろうと思うが、繁盛していたことも他に比類ないくらいで、廊下は人の往来がらくえきとしてさながら市の如きものであった。病院のくせに少しも陰気くさくないのは外科の患者が多いせいかもしれない。」(一部の漢字を仮名に改めた)と述べている。

明治、大正の順天堂には、外科、内科、眼科、産婦人科、皮膚科、泌尿器科、レントゲン科(日本初の外来)があり、科長は医学博士あるいは医学士で、海外留学が珍しい時代に、ほとんどがドイツ留学帰りであった。

レントゲン科

レントゲン科
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