【3D空間から体験】

Experience in 3D space

エントランス(序章)

エントランス(序章)

日本医学教育歴史館は、順天堂大学本郷キャンパスのセンチュリータワー17階にある。歴史館への直通エレベーターを降りると、白を基調とした落ち着いた入口があらわれる。「日本医学教育歴史館設立の趣旨」をご覧いただき、その先に足を進めていただくと、高い天井にガラス張りの明るい開放的なエントランスがひろがる。

まずご覧いただくのは、左手に見える大きな赤と白の「病院旗」。戊辰戦争の際に設けられた野戦病院に掲げられた旗で、官軍を示す「菊の御紋」が描かれる。正面には大型画面が設置され、医学教育史のショートムービーの鑑賞スペースとなっている。右手に伸びる大きな「日本医学教育史年表」を読み進むと、展示室の入口があらわれる。エントランス正面のガラス面は順天堂の歴史フォトギャラリーとなっており、また空と街を見渡せる気持ちのよい空間となっている。

第1章 近代医学への接触

第1章(近代医学への接触)

わが国の西洋医学は16世紀にキリスト教宣教師の到来によって始まった。しかし、それはキリスト教と共に布教されていた近代以前の医学であった。ヨーロッパの近代医学は16世紀にはじまったが、その象徴である「ヴェサリウスの解剖書」が日本に到達したのが17世紀半ば、江戸初期であった。人々は西洋解剖図が写実的なことに驚いた。医書が輸入され、人体解剖が行われ、『解体新書』が翻訳出版された。その後、人々の西洋医学への関心が高まり、蘭学が興隆して、西洋医学が徐々に受容されて明治時代を迎えた。

第2章 近代西洋医学の本格的導入

第2章 近代西洋医学の本格的導入

幕府は西洋医学の本格的導入を目指してオランダに海軍軍医の派遣を要請。長崎で本格的医学教育が始まった。明治維新後、新政府は西洋医学採用を定め、戊辰戦争で活躍した軍医ウィリアム・ウィリスを大病院(東大医学部の前身)の教師に迎えた。しかし、1869(明治2)年、政府は日本の医学のモデルをドイツ医学とすると決めて、ドイツ人教師を雇うこととした。それに先だって大病院を改めた大学東校の責任者に佐藤尚中が任命された。尚中は西洋医学を全国に早急に普及するために東校の教育制度を制定した。

第3章 近代医学教育の普及とボトムアップ

第3章 近代医学教育の普及とボトムアップ

明治政府は、まずドイツから御雇い外国人教師を招聘して、国立の東京医学校(東大医学部の前身)を作った。一方、1872(明治5)年、学制が制定されると、大学区に1校の医学校を定めた。国立の東京医学校は別格となり、仙台、千葉、金沢、岡山、長崎の5校が選ばれた。のちの官立医学校のはじまりである。一方、全国各地の病院に医学校が付設され、その一部が県立医学校へと発展した。それとは別に、各地に私立の医学校があり医術開業試験の予備教育を行った。その代表が済生学舎である。

第4章 社会的要請で増減した医学校

第4章 社会的要請で増減した医学校

20世紀に入ると、有識者の間で医学教育の一元化への要請が強まり、帝国大学、医科大学、医学専門学校を大学に統一すべきだという意見が大勢を占めて、専門学校が大学に昇格し始めた。また、1920(大正9)年に新設した慶應大学医学部は医科大学として発足した。しかし、その動向に水を差したのが1923(大正12)年、首都および東海に大被害をもたらした関東大震災であった。多くの負傷者の救済に当たった医師の臨床能力が低かったことや、医師不足から、昭和に入ると、臨床に実践力のある医師を短期間に育成することを目指した専門学校の設立認可が続いた。

第5章 米英医学の移入

第5章 米英医学の移入

1945(昭和20)年、終戦を迎え、日本は連合軍に占領された。占領軍司令部(GHQ/SCAP)がすべてを支配し、医学はGHQ/SCAPの公衆衛生福祉局の指令を受けて大きく変わった。それまでドイツ医学一辺倒であった医学教育は英語による教育に変わることを求められ、教育内容も大きく変わり、留学生はアメリカに向かった。SCAPはまた、政府に病院並びに看護制度改革を求め、1947(昭和22)年に国立東京第一病院を模範病院に選定し、病院管理研究所を発足させ、完全看護、完全給食等に向けて近代病院の機能、運営、施設についての教育が行われた。