江戸日本橋薬研堀の蘭医学塾「和田塾」
和田泰然が江戸日本橋薬研堀に蘭医学塾和田塾を開いたのは1838年(天保9)35歳の働き盛りであった。江戸の町には高名な蘭学塾もあったが、長崎留学から泰然について江戸に戻った林洞海や三宅艮斎が泰然を助け、和田塾はたちまち江戸有数の外科塾として名をあげていった。和田塾の活動は「和田文庫」の蔵書印を持つ数多くの西洋医学書、泰然の訳書などからもうかがい知ることができる。しかし、和田塾を開いて1年後、幕府の蘭学者弾圧事件、いわゆる「蛮社の獄」が起こった。泰然の友人渡辺崋山が郷里で蟄居を命じられ、蘭学者高野長英は自首して永牢となり、小関三英は自殺した。この事件が起こる直前、泰然も高野長英との関係から江戸の町奉行の要注意人物になっていた。その他、いろいろなことが重なり、泰然は1843年(天保14)和田塾を女婿の林洞海にまかせて、佐倉に移住し蘭医学塾順天堂を開いた。
薬研堀
和田塾のあった薬研堀近辺
和田塾の場所は、『江戸切絵図』の「日本橋北、内神田、両国浜町」の部をみると、両国橋の近くで薬研堀埋立地に面して、林洞海と和田の名前が並んでいる。
「嘉永の江戸切絵図」
和田塾の蔵書
泰然は天保6年(1835)1月5日に江戸を発ち、3月10日に長崎に到着。通詞末永甚左衛門方に寄寓している。しかし、この時期の長崎は、シーボルト事件のためオランダ人医師の来日はなかった。吉雄、楢林などの著名な通詞一族がオランダ医学塾を開き、留学生はここで学んだ。泰然は蘭館長ニーマンについて学んだと伝えられる。また、佐賀藩医大石良英と楢林栄建から西洋医学や蘭書の読み方などを学んでいる。泰然はまた長崎でたくさんの蘭書を購入した。
マルチン(麻爾珍)の『蘭々字彙』と和田塾の蔵書印(右)
オランダ語の辞書。1829年第2版。「和田文庫」の印のほか、「象先堂図書記」「冲斎書記」「佐倉順天堂蔵書印」が押され、表紙には林洞海蔵書印「又新斎蔵」の墨書がある。当時、この本が便利な辞書として使われ、所有者が転々としたことがわかる。マルチンはオランダの本屋の名前らしい。
千葉大学附属図書館亥鼻分館蔵
コンスブルックの『治療書』
コンスブルック(1764 ~ 1837)はドイツの医師。内科書や小児科の書があり、小関三英、高野長英の訳書がある。
千葉県立佐倉高等学校蔵
『重訂解体新書』13冊
大槻玄沢が杉田玄白の命で『解体新書』を改訂したもの。「和田文庫」の蔵書印がある。
『小児全書』
宇田川玄真訳・足立長雋校によるローゼンシュタインの小児科書の翻訳書。日本で最初の西洋小児科書。種痘の章が最もよく読まれている。本書には和田塾の蔵書印がある。
佐藤仁氏蔵