故大学大丞兼大博士大典医從五位
佐藤尚中先生碑
宮内文学從五位 川田剛撰
国家中興し仁術を崇尚し名医を訪求して佐倉の佐藤先生首(はじ)めて其の選に膺(あた)る。擢(ぬきん)じて陪臣自り大博士兼大典医と為る。世を挙(あげ)て伝称※1す。然れども先生の志は栄達に在らず。職を辞して家居し病院を開き生徒を養い、其の道を振起す。所謂豪傑の士。文王※2を待ずして興る者、或は之に近し。
先生、諱(いみな)は尚中、字(あざな)は泰卿、号は舜海また笠翁(りゅうおう)、本姓山口氏、父は甫僊(ほせん)と曰い、小見川侯の侍医なり。先生幼にして江戸に在(あ)り老儒寺門子※3に從いて粗(ほぼ)書史に渉る。去りて医を安藤文澤に学ぶ。隣坊に爭闘大傷する者あり。文澤を召す。
(たまたま)文澤家に在らず。先生縫女用うる所の鍼線※4を借り、馳せ往きて創口を縫合する二十
刺。挙止自若※5。毫も難色無し。時に年甫めて十有六。文澤驚嘆して曰く。此れ国器※6なり。以て久しく我が門下に屈す可からず。因って佐藤泰然に就き学ぶことを勧む。泰然は当世の良医、尤(もっと)も外科を工(たくみ)とす。先生大いに喜び贄(し)※7を執り師事す。蘭書を講究し兼て手術を習う。
安政中※8泰然佐倉藩の聘する所と為り先生を以て東徙(とうし)※9す。病者至れば則ち代りて之を療す。薬攻刀割、症に随いて方を設く。人出藍と称す。泰然遂に養いて子と為し、老を告げ家を譲る。藩主復た引きて侍医と為し、眷遇(けんぐう)※10厚きを加う。
萬延元年※11覇府※12蘭医百朋(ぽんぺ)※13氏を長崎に招致す。先生藩命を奉じ往きて学ぶ。夙夜(しゅくや)※14勉勵殆んど寝食を廃す。百朋(ぽんぺ)称歎し盡く其の方を授く。其の金瘍折瘍を治する、祝薬剮殺※15、先生をして鈹刀※16を執らしむ。学成り東帰するに及び贐(はなむけ)するに外科書数部を以てす。皆欧洲名医の著す所、先生熟讀玩味大いに得る所有り。乃ち済衆精舎※17を築き七科を分ちて業を授く。別に一舎を設け病者を延(ひ)く。是に於て弟子益(ますます)進みて、治を乞う者麕集(くんしゅう)※18す。藩主また先生の議を用い医政を更革(こうかく)※19 し病院及び衛生館を建つ。凡そ医に禄する者、皆洋方を主とす。因って先生一等医為(た)るを以て之を総管す。進めて側用人格に班し、増して三十口糧を給す。異数※20なり。
にして覇府其の名を聞き辟(へき)※21して医員と為さんと欲す。固辞して往かず。
明治元年 今上親政、東京に大学を建つ。其の東校※22は医学生徒を養う。明年先生を徴して大博士と為し東校のことを勾当(こうとう)※23す。また明年正六位に叙し大典医を兼ね、皆を奉じて生理書を侍講す。四年從五位に進み兼ねて海軍病院の事を勾当す。是の年、建議して曰く、御医 脈を診し兼て薬剤を調達するを掌(つかさど)る。然れども医は司命※24を称す。太上※25は諸(もろもろ)の未だ病まざるを治し、其の次は諸の已(すで)に病むを治し、また其の次は必死にして救うべからざる者をして頓に苦痛を解かしむ。司薬と科を同じくせず。况(いわ)んや天威地尊に咫尺(しせき)※26し任重し、宜しく勅任に陞班し、別に司薬の官を置き、之を属官と為すべし。臣近ころ本官に任じ、玉體を拝診す。烏帽直垂(えぼしひたたれ)、膝行して進み膝行して卻(しりぞく)く。
猴(もくこう)※27にして冠を加うと雖も、野性束縛に苦しむ。抑も亦、人身の五官、目は視、耳は聴き、手は持ち、足は行く、皆天賦に本づく。今足に代るに膝を以てす。乃ち不可無き乎。書奏し未だ即ち行われずと雖も、時論之を偉とす。尋で大学大丞に遷る。仍(よ)りて大博士大典医を兼ぬ。見る所合わず、病を謝して致仕(ちし)※28す。
私※29に病院を城北錬塀坊※30に建て順天堂と曰う。堂甚だ広からず以て衆を容るる無し。更に大厦※31を湯島に造り以て徏(うつ)る。
(たまたま)其の子進、医を孛国※32に学び業を卒えて帰り、父子協力益(ますます)其の方を精研す。生徒笈を負うて遐邇(かじ)※33爭うて至り、病者の治を乞う者年一年多し。奇疾劇症薬石の救う可からざる所、骨を刮し肉を剜(えぐ)り、立(たちどころ)に功効を見る。是に於て順天病院の名大いに海内に噪たり。是より先き先生咯血を患い独り北郊の別墅(べっしょ)※34に居る。少間あれば則ち往きて事を病院に視る。或(あるひと)之を諫止す。乃ち曰く、衆人命を我に託す、暇を寧(やす)んじ吾身を顧みん哉。居ること何(いくばく)もなく宿疾劇しきを加え、遂に起たず。実に明治十五年七月廿三日なり。其の生まれ、文政十年四月八日を距てて享年五十有六。越えて三日、豊島郡谷中の塋(えい)※35に葬むる。達官※36名士、柩を送る者三千人。明年門人相議して碑を建つ。文を余に請う。余先生と親しく善し、義として敢て辞せず。
先生の性は沈毅、事に臨んで勇往、百折撓まず。平生医道の興廃を以て己が任と為す。嘗て曰く論精にして術疎なるは学者の通弊にして外科は最も甚だしと為す。乃ち之を実地に試み、刳破抽割、手に随い刀を運ぶ。其の卵巣水腫を截開し、皮肉を剜取(わんしゅ)して鼻缺を補うが若(ごと)きは能く医の未だ為さざるの所を為せり。又規程を設けて後進を誘掖(ゆうえき)す。門人三千、其の名家にして顕職に居る者十餘人なり。著す所、外科医方※37、済衆録の諸書世に行わる。
髙橋氏を娶り二男二女を生む。側室某氏三男三女を生む。初め泰然其の子をして佗姓※38を冐さしめ、先生を養いて嗣と為し、重ねて業を継ぐなり。先生之(この)命に傚(なら)い、生む所の諸子は別に生計を営む。姪(てつ)※39進を養いて子と為し、配するに長女を以てす。又門人岡本大道を養いて嗣となし、佐藤舜海を襲称す。進は陸軍軍医監と為り、舜海は陸軍軍医正と為る。而して昔日建議する所、今皆施行す。旧制凡そ官を辞する者、位記を還納す。
先生の訃 勅に聞え從五位に復す。蓋し特旨と云う。銘に曰く、
論に巧技に拙
羗(ああ)先生彼此を兼ぬ
大典医大博士
弟子進(すすみ)道益(ますます)起る
古木森(しげる)谷中の里
一世を挙げて趙家※40の子
刀圭を執り神(しん)鬼※41を驚す
歸去來兮膴仕(ぶし)※42を辞す
躯殻亡び神(しん)死せず
豊碑屹(そびえ)厥(そ)の美を伝う
明治十六年七月 陸軍大将兼左大臣二品大勲位熾仁親王篆額(てんがく)
正五位 日下部東作書 廣羣鶴刻※43