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順天堂医院の今昔

Story 23 江戸時代の順天堂

順天堂は1838年(天保9)に佐藤泰然が長崎留学から戻り、江戸の薬研堀(現東日本橋)に医学塾「和田塾」を開いたときからはじまる。それから175周年。2014年4月に祝典が行われる。
江戸には杉田玄白の蘭学塾「天真楼」が始まって以来、有名な蘭学塾がいくつもあったが、「和田塾」は外科塾として名をあげた。その後、泰然は和田塾を女婿林洞海に任せて、自らは佐倉に移るが、林洞海は将軍家定か危篤になったとき町医から奥医師に抜擢された名医であった。
当時の外科の記録「外科実験」 佐倉に移った泰然が開いた順天堂は外科塾として大いに名をあげ、医学生が全国各地から集まった。当時の外科の記録「外科実験」が残るが、その中に嘉永4年(1851)に日本で最初の「小便閉膀胱穿孔術」を泰然が行った例がある。尿閉の患者に膀胱穿孔をすると、大激痛のあと尿が自然に出て治ったと記す。後はどうなっただろうか?
泰然の次男松本良順が他所で経験したテタヌス(破傷風)の記録もあった。患者は40歳の武士。良順の他に有名な医師も呼ばれたが、良順だけが患者の後弓反張(背中が反り返る)をみてテタヌスと診断した。しかし、幕府の医師良順は治療していない。当時、幕府の奥医師は漢方以外の、つまり西洋医学の治療をすることが禁じられていたからだった。

『順天堂外科実験』 順天堂で行われた手術の記録1850-1853年間の記録

『順天堂外科実験』 順天堂で行われた手術の記録1850-1853年間の記録
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