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佐藤泰然、蘭学を志す

泰然が蘭学を志したのは20代後半、時代は1824年(文政7)シーボルトが長崎に鳴滝塾を設け蘭学志望者が急速に増え、蘭学が隆盛になる兆しが現れた時期であった。泰然はのちに刎頸(ふんけい)の友となる松本良甫(りょうほ)を誘って蘭方医足立長雋に入門。さらにシーボルトの弟子高野長英に入門してオランダ語を学ぶが、いっそうの蘭学修得を目指して、長崎留学を決意した。留学にあたって伊奈家の禄を離れて姓を田辺から母方の実家の姓和田に改め、妻子を父藤佐(とうすけ)と義兄山内豊城に預けて1835年(天保6)長崎に出かけた。

泰然の師

足立長雋【1776 ~ 1836】

足立長雋【1776 ~ 1836】
江戸の人。号は無涯。多紀安長から漢方を、吉田長淑から西洋医学を学ぶ。丹波篠山藩の藩医。初めて産科に西洋医学を導入し、『女科集成』を著した。
足立長雋の訳書『医方研幾方剤篇』

高野長英 【1804 ~ 1850】

高野長英 【1804 ~ 1850】
陸奥(岩手県)水沢の人。長崎でシーボルトに蘭学を学び、江戸に戻って麹町貝坂で開塾。泰然のオランダ語の師。1838年(天保9)『夢物語』を著し、幕政を批判。翌年渡辺崋山らと蛮社の獄で投獄された。『医原枢要』『医家備用』の訳書がある。

長崎での泰然

泰然は天保6年(1835)1月5日に江戸を発ち、3月10日に長崎に到着。通詞末永甚左衛門方に寄寓している。しかし、この時期の長崎は、シーボルト事件のためオランダ人医師の来日はなかった。吉雄、楢林などの著名な通詞一族がオランダ医学塾を開き、留学生はここで学んだ。泰然は蘭館長ニーマンについて学んだと伝えられる。また、佐賀藩医大石良英と楢林栄建から西洋医学や蘭書の読み方などを学んでいる。泰然はまた長崎でたくさんの蘭書を購入した。

種痘と泰然

長崎にはシーボルトがジェンナーの種痘法を伝えていたが、痘苗が腐敗していたために牛痘接種はできなかった。長崎ではジェンナーの種痘法に先立つ人痘接種が中国から伝わり、行われていた。泰然はジェンナーの種痘法を本で学び、人痘接種法を学び、それを応用した方法を習得していた。泰然の次男良順が4歳の時に受けたのはこの種痘であった。

和田泰然の訳書「痘科集成」

和田泰然の訳書「痘科集成」
泰然のもっとも初期の著書である。和紙60枚を綴じた一冊である。内容は、フーへランド、コンラッジ、ワートル、モストの人痘接種の部分を抄訳して、泰然の見解を加えた著作である。なかに自ら人痘接種をした経験を加筆している。

種痘器具

種痘器具
佐倉市教育委員会蔵 国立歴史民俗博物館寄託
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