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佐倉に順天堂を開く

泰然が江戸から下総佐倉に移った理由は特定できないが、佐倉藩主が蘭癖大名といわれた堀田正睦(まさよし)であったこと、家老の渡辺弥一兵衛の誘いがあったのも確かである。泰然は移住を決意すると、ただちに佐倉の町外れに土地を求めた。1843年(天保14)春である。その契約書の署名には和田とともに、佐藤泰然とある。父祖の姓、佐藤を名のり心機一転を図ったのだろう。佐倉へは8月に移り、10月に塾の名を順天堂と定めて開塾した。残念ながら、順天堂には門人録が残っていないため、このころの塾生の名はわからない。また、1854年(安政元)の順天堂の療治定(治療費)には帝王切開、卵巣水腫開腹術など他に例を見ない病名が載る。外科に優れた順天堂の伝統がここにみられる。

土地・家屋の購入

泰然が購入した家屋・畑購入の証文

泰然が購入した家屋・畑購入の証文
泰然が順天堂を開いた本町に瓦葺き家屋1軒と屋敷、畑を35両で購入したときの証文で、売り主が弥太郎、宛先は佐藤泰然。名主喜兵衛、組頭清兵衛、甚六、常五郎の署名、捺印がある。永代売渡申証文之事 天保14年(1843)4月
佐倉市教育委員会蔵 国立歴史民俗博物館寄託

順天堂の位置

順天堂の位置
佐倉城下の東端に近い佐倉本もと町で、図には泰然と書き入れがあり、間口15間、奥行き50間、東隣は重右衛門の宅地で間口5間半、奥行き50間となっている。1間=1.81メートル。

田畑購入の証文

田畑購入の証文
大蛇村に弥太郎所有の上畑1反2畝6歩を1両で購入したときの証文。後見人は家屋・畑購入証文と同じく彦右衛門。名主は大蛇村儀兵衛、組頭は文右衛門であり、宛先は和田泰然となっている。泰然は佐倉に移って佐藤姓に改めた。
有合ニ売渡申畑之事 天保14年(1843)4月
佐倉市教育委員会蔵 国立歴史民俗博物館寄託

医学塾順天堂

江戸時代の順天堂は全国各地から医学生が集まった。教育方針はオランダ語の習得のみに専念するのではなく、蘭書を読み、西洋医術を実践することであった。明治時代に入り、新政府に招聘された佐藤尚中が門人を率いて東京に戻り、順天堂の本流を継承する。一方、佐倉順天堂は千葉県の拠点病院として発展した。

山田安朴筆「順天堂」扁額

山田安朴筆「順天堂」扁額
順天の語は、中国の古典「易経」にある「天道に順したがう」の意で、医と人の道を示すものである。扁額は、姫路藩医山田安朴(1788 ~ 1853)の揮毫である。安朴は書家としても知られ、隷書を得意とした。癸卯初冬は天保14年(1843)10月、小葭外史は山田安朴その人のことである。

『順天堂方叢』

『順天堂方叢』
順天堂で用いた処方集。西洋外科である順天堂では、変質薬之部で腺病、慢性梅毒に水銀、リウマチに吐酒石など化学薬品が用いられている。
佐倉市教育委員会蔵 国立歴史民俗博物館寄託

順天堂で行われた手術の記録『順天堂外科実験』

順天堂で行われた手術の記録『順天堂外科実験』
泰然の高弟、関寛斎は佐倉順天堂で行われた治療の記録を1850 ~ 1853年(嘉永3~6)にわたって具体的に書き残した。33のかなり詳しい症例(内科的治療は2例)を記す。

順天堂の治療代

順天堂の治療代
1850年代(嘉永・安政年間)に順天堂の診療室に掲げられていた治療の料金表。39種の治療、料金をあげている。すべて外科。出産200疋、出張1両、乳癌摘出術1000疋、卵巣水腫開腹術10両、割腹出胎児術(帝王切開)10両、造鼻術10両など、高価な手術が行われた。江戸時代の貨幣の金1両は金400疋、また銀60匁にあたり、金1両は米約1石の価値があった。
療治定 1854年(安政元)
成田山霊光館蔵
 
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