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西洋の医学、日本の泰斗佐藤尚中先生の顕彰碑

幕末から明治維新にかけて西洋医学の発展に貢献された順天堂(医学塾)第二代堂主、大学東校(東京大学医学部の前身)初代校長などを歴任された佐藤尚中先生の顕彰碑が都立谷中霊園にあり、左大臣・大勲位 有栖川宮熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王が篆額「故大学大博士佐藤尚中の碑」を記されております。
碑石の裏面には建碑寄付者、発起人、幹事など当時の医学に関わっていた386名(その多くは順天堂門下生)の名前が記されております。

碑石の表面

碑石の裏面

史料提供のお願い

この386名にゆかりの方、また、佐藤尚中先生や順天堂に関係する史料を保存されている方がおられましたら、下記までご連絡を頂けましたら幸いです。ご提供いただきました史料を順天堂史・写真集に使用・掲載させていただいた場合は、お名前を記させていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
 
連絡先順天堂大学 総務課
E-mailsoumu@juntendo.ac.jp
TEL03-5802-1005
FAX03-3814-9100

情報提供内容一覧

顕彰碑の名前
ご提供下さった情報
松葉 弘順天堂大学卒業生の祖祖父。
明治初期に土浦で松葉病院を開設していた。先方の史料に寄れば「佐藤舜海に学んだ」とある。
明治6年新冶県(現在の茨城県)に帰り、「履信病院」を開業している。息子は「玄四郎」で、大正期には廃業している。
西野佐久順天堂大学卒業生の曽祖父と思われる。“醫業免許監察(明治9年5月3日日付)”が現存しており時期として合致。
堤 玄昌天保13年生まれ明治24年没。武卅秩父の開業医。
桑田衡平桑田衡平とその兄高林謙三(小久保健二郎)※顕彰碑に名前無はともに佐倉順天堂で修行をしたと思われる。時期については不明。
八十島保太郎ニコライ堂のニコライの「主治医」のような立場の人。明治30年代、八十島医院は「順天堂」とも呼ばれていた。
『宣教師ニコライと明治日本』(岩波新書)第四章に掲載。
宮原名澤医師、郷土史研究家。彫刻や竹細工にも秀でた多彩な人物。島津日新公いろは歌の解説本等も著す。
太田久恒・寛永4年12月、下総古河藩に生る。父は仲琢、土井候侍医
・ 8才、藩儒小高葛城に学ぶ
・16才藩学館盈科堂(えいかどう)に入り大沼枕山に藩書詩文を学び傍ら漢方医書を読む
・19歳東都に遊び池田謙斎の医門に入り幾つもなくして大学東校に英書を修む(明治3年11月)
・同年11月隈川宗悦の医門に入る
・同5年5月第1大学区医学校に入り理化学試験に登第
・佐藤尚中の済衆舎設立に及び挙がられて理学教授
・同年7年10月東京府病院雇医
・同8年8月三春病院々長
・同20年辞し郷里に開業し地方衛生会委員左阿医会々長
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