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順天堂医院の今昔

Story 1 順天堂醫院の名称と由来

むかし、中央線の電車の窓から順天堂を見上げると「順天堂醫院」と書いた表玄関がみえた。こんなに大きな病院がなぜ醫院なのか不思議でならなかった。今も「順天堂はどうして“醫院”なのですか?」とよくたずねられる。
順天堂が順天堂醫院といったのは、明治8年に湯島の台地に病院を開いたときからであった。そのときの門柱に『順天堂醫院』の看板が掛かる。最初に醫院といったのは東校(東京大学前身)の附属病院であった。そこの校長であった佐藤尚中(順天堂第2代堂主)が、病院は病人を泊めておく場所を意味する。治療の意味はない。醫院と改めるべきだと提言し附属醫院となったのである。醫には外科、内科、薬の意味があり治療を意味する。
「病院」の呼び名は戊辰戦争の前戦で使われていた。順天堂第3代堂主佐藤進が奥羽追討陸軍病院頭取に任命された際、その場所に“病院”旗を掲げた。そのときの病院旗が順天堂に伝わる。その後、各地に出来た治療所を病院と呼んでいた。横浜陸軍仮病院もその一つであった。

1875年(明治8)湯島に新設された順天

1875年(明治8)湯島に新設された順天

戊辰戦争時に佐藤進が掲げた野戦病院を示す赤い病院旗

戊辰戦争時に佐藤進が掲げた野戦病院を示す赤い病院旗
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