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歴史


 

順天堂大学医学部中央研究機構の変遷

 
生体分子研究部門の順天堂大学・医学部における中央研究機構への参加は大きく分類して次の3期となる。

1) 医学部 中央研究室・中央測定室時代;1959年−1970年3月31日

2) 医学部 中央施設・中央機器分析室時代;1970年4月1日−2003年9月30日

3) 大学院医学研究科 研究基盤センター・生体分子研究部門時代;2003年10月1日

  −現在まで

 
生体分子研究部門の順天堂大学・医学部における中央研究機構への参加は大きく分類して次の3期となる。

1) 医学部 中央研究室・中央測定室時代

【中央測定室時代】
順天堂大学の中央研究室機構は1956年にはすでにスタートしていた。有山学長が新潟大学から就任され専門学校から大学に昇格し、研究の充実を図られた中でそれらは誕生した。臨床共同研究室(1959年に共同生化学と共同病理に分割)、中央真菌研究室、動物舎(1955年5号館屋上に移転)、第二解剖(電子顕微鏡室)(中庭建屋)、中央機械室(1967年中央測定室)等があった。5号館地下のアイソトープ化学実験室及び5号館屋上にあったアイソトープ動物実験室は1959年5号館の建屋完成時にすでに施設整備されていた。

一見中央化したと言っても、管理する人がなく、名簿上の係員は管理講座のスタッフとなっていた。そのためか大型機器はなかなか購入できない状態だった。NIHの留学から帰国して研究設備の貧弱さに対して寄生虫学の大家助教授は生化学の関根教授と生化学研究関連機器を中央化し、誰でもが利用できる機器センターの立ち上げを真剣に話し合われた。その結果、生化学研究が中心の基礎・臨床講座の賛同を得て、機器を一箇所に集めた。
生化学講座からはアミノ酸分析計(日立KLA-3), 自記分光光度計(日立EPS-3), 分光光度計(パーキンエルマー124)を、薬理学講座から自記蛍光光度計(日立MPF-3)、蛍光光度計(EPU-2A)を、内科腎臓研究室から原子吸光光度計(EPU-2A)が供出された。5号館3階の311室をアミノ酸分析計室としてまた315室に分光器室として整備した。

1964年に生化学で購入したアミノ酸分析計は生化学の山下辰久助教授が責任者として荒井助手が分析を担当していた。1966年には山下助教授がNIH に留学され、後任者に労働衛生研究所の主任研究員であった木村正巳講師が就任された。同年、荒井助手退職の数ヶ月前に中央機械室に小松光男が技術補助員として採用された。村山が就任した1967年3月には、すでに木村ー小松体制でアミノ酸分析計のワンカラムによる短時間分析への開発がなされていた。全学的に試料分析を受け付けており、生化学教室の廊下にあったアイスクリームストッカーには100検体を超える臨床各科の血液、髄液、尿試料が保存されていた。 木村講師は大家助教授のNIH留学中の友人であり、中央化への協力を約束された。


【液体シンチレーション購入とアイソトープ実験室】

生化学関連機器を完全に中央化して最初に購入したのが液体シンチレーションカウンターであった。値段は当時で推定2000万円前後であった (初任給が数万円の頃である)。その時代のアイソトープ研究はまさに建前と本音が大きく異なり、アイソトープ研究室は存在しても、実験する上で不便であるという理由で、各講座内で行われていた。その結果、H3やC13の低エネルギーβ線測定用の液体シンチレーションカウンターは科学技術庁の許可を受ける事無く、一般の実験室或いは測定室に設置された。当時、日本中の多くの大学で同様のことが行われていた。しかしながら、科学技術庁の立ち入り検査は何年かに一度あり、その使われていない施設を検査された。その度に急遽、掃除し、古い白衣をぶら下げ、事務に走り古びた使いかけのノートをもらい、利用者の架空の立ち入り記録を作り上げた。なんとも後ろめたい気持ちが、その後、10年以上、アイソトープの規程類や施設造り、教育訓練にエネルギーを割き、良心の回復を図る第一歩となった。

【中央測定室の構成と影武者の存在】

村山が就任してすぐに東京理科大学の化学科の卒業生を採用しスタッフは小松と3人体制となった。しかしながら、直属の上司は医学部長の懸田克躬精神科教授であり、すべての決済印は医学部長室に参上し、戴かなければならなかった。しかしながら、影武者のごとき指導者が大家助教授、木村講師の両先生であった。責任の所在が明確にならないこの体制は1970年の中央機構の改正まで続いた。その後の改正においてもこの影武者が医学部長に正式に任命され名簿上も室長とはなったが、ほとんどが兼務業務のために室員への細かな教育はなされず、結果的に中央機構のスタッフをスポイルする原因となった。

【9号館建設と研究機構の模索(生化学懇談会)】

教育・研究棟として昭和43年9号館一期工事の建設が開始された。
昭和43年5月、関根隆光研究委員長(生化学教授)は、9号館建設を機に順天堂の将来の研究体制を考え、生化学関係の中央研究室のあり方を模索するための懇談会開催を提案された。基礎・臨床を通して講師、助教授、教授の中から生化学研究を実際に行っている有志の集まりとして、寄生虫学大家裕助教授と生化学木村正巳講師が世話人となり第一回生化学懇談会が開催された。初回の出席者は研究委員長及び世話人のほかに大野丞二(腎臓内科教授)、大塚親哉(小児科講師)、上条清明(細菌学助教授)、亀山恒夫(生化学講師)、川田陽弘(皮膚科助教授)、佐藤潔(脳外科講師)、里吉光子(麻酔科助教授)、内藤聖二(内科助教授)長谷川紅子(薬理助手)、平井慶徳(小児外科助教授)、森 松広(産婦人科講師)、山口正弘(生化学講師)の15氏であり、欠席者は松沢茂隆(法医学教授)と浪久利彦(内科助教授)氏であった。その目的は懇談会で討論した結果を医学部長に答申し、大学の将来計画委員会を経由して、中央研究機構のあり方を大学上層部に強く働きかける事にあった。月に1―2回開催され懇談会は1年半後の昭和44年11月に終了するまで30回に及んだ。生化学懇談会で結論を得られなかった案件に関しては、昭和45年4月にスタートした中央施設・共同研究室の運営委員会及び利用者会議にバトンタッチした。

その間討論された内容は(1)研究体制のあり方;特に今後予想される臨床研究のあり方、基礎の臨床研究に対するあり方、臨床の基礎研究のあり方であった。(2)中央施設・共同研究室の管理運営あり方;研究を積極的に推し進める場としての中央の存在、その本質的意義等が繰り返し、討論された。更に、(3)中央施設・共同研究室設置のために減少した臨床各科の固有研究スペース割り当てであった。会議は毎回6時過ぎから2時間−3時間を要した。

昭和44年末から昭和45年はじめに、中央研究室機構整備に関する第一次答申として生化学懇談会で議論された結果が研究委員会及び研究体制起草小委員会でまとめられ、医学部・長期(将来)計画委員長懸田克躬医学部長に提出された。その報告書の中に、中央機器部門は各研究グループ(基礎・臨床各科にわたる機器利用グループ)が自己の研究グループの"延長ファシリティー"として考えるべきものであり、特定のグループに所属させるべきものではないと報告された。大家助教授の主張された中央機器に関する「菊の花びら理論」は「中央機器が花芯にあり講座・研究室が各花びらとして存在する」と言う考えであり、単なる機器の共同利用を超え、講座単位の考え方を打破した上で、更にプラスアルファを追求していた。

2) 医学部 中央施設・中央機器分析室時代

【中央研究室から中央施設・共同研究室への組織改変−2年間の準備期間】

1970年1月9号館一期工事は落成し、年明けから大掛かりな移転作業が開始された。大型機器があるにも拘わらずエレベーターが小さく、機器をばらばらにして階段を使用しての運び込みが行われた。
生化学懇談会では最終的な結論として①利用者参加型の運営委員会方式をとること、②運営委員長に主たる権限を与えること、③現場のスタッフを室長補佐に任命すること等を当時の真島医学部長(生理学II教授)に建策した。しかしながら「委員会は大学の管理ラインにないので、大学の大切な財産に関する管理の権限を運営委員長に与えることはできない」と主張され、管理スタッフには兼務業務の影武者を室長として正式に任命され、現場からの室長補佐が任命され、運営に関しては利用者から選出された運営委員を医学部長が任命し、管理スタッフを加え運営することになった。中央研究室は全学的な利用者に対応する部署を中央施設とし、臨床研究の足場になる部署を共同研究室として大別し、前者の世話役を中央機器分析室大家室長に、後者を共同細菌上条室長が任命され、月に一回招集される室長会議の進行役となられた。2年間を試行期間として、この間に規程、使用内規を作成することでスタートさせた。室長設置の医学部長の決断は当時、一見後退を意味したと感じた人も多かった。しかしながら、当事者である室長補佐の村山は、室長の存在により利用者からの圧力から救われたことも多かった。
施設の利用者の登録は現在では当然のことになっているが、その当時はどの施設においても規則化されていなかった。使用者の登録制を導入し、運営委員の選挙権、被選挙権を有する利用者による利用者会議を設立した。以後今日まで、毎年行われる機器購入アンケートによる運営への参画、2年に一度行われる運営委員選挙等の確立はこのときになされ、現在に引き継がれているものである。当時は機器も十分になかったために、利用者会議での討論は細かなことにまでに及び、精製水装置一台購入するにも喧々諤々の論争をした。

二年後の1972年4月中央施設・共同研究室機構は正式にスタートし、中央機器分析室の存在が認知された。その後1974年8月9号館2期工事が完成した

【低レベルアイソトープ実験室の設置】

9号館建設時にアイソトープ研究室を設立する動きはあった。大家教授と私は慶応大学のアイソトープ管理室を訪問し、管理の実態を調査したが、素人には手がつけられない事が明らかになった。慶応大学の担当者からアイソトープ協会に出入りの清水科学工業清水氏を紹介された。清水氏にコンサルテーションを依頼し、すでに許可を得ているキューリーオーダーのアイソトープを使用するための貯水槽はプールの大きさが必要であると聞き、呆然とした。しかしながら9号館建築の基礎工事は着々と進み、すでに貯水槽を作ることはできない段階になっていた。9号館建設が終了しても、相変わらず建前と本音の一般実験室におけるアイソトープ実験をアイソトープ委員会としても見逃さざるを得なかった。内部告発が始まった頃に、共同生化学実験室のアイソトープ使用グループの流しの水漏れがあり、同室のアイソトープを使用しない研究者から委員会にクレームが提出された。そこで委員会は何としても、アイソトープ実験のできる場所の確保は急務であった。9号館2期工事前であり増築を機に、低レベルのアイソトープ研究室を設置すべく関根・大家両教授は執念を燃やされた。再度清水氏にコンサルテーションをお願いし、法的に許可されていた貯水槽を兼ねた排水用流しを用いて、9号館8階に低レベルアイソトープ実験室を設置することになった。それと同時に、既存のアイソトープ化学分析室及び動物実験室も放射線取り扱い規程にのっとり改造を加え、アイソトープの数量を減じて許可を取り直し、建前と本音の解消に挑戦した。そこで本格的なアイソトープ管理が中央機器分析室に課せられた。
アイソトープ管理は大学全体の放射線委員会土屋委員長の取り計らいで、放射線部より毎年一人の技師に交代で出向してもらい、アイソトープ動物実験室の管理、アイソトープの購入を担当していた。アイソトープ関連の種々の規程作りも第一回に派遣された立花放射線技師(現在の中央検査室室技師長)、中央機器分析室村山と関根教授の3人で週一回、生化学の教授室で昼食後数時間を費やし検討をし、原案を練っていった。変則的な低レベル実験室であったために教育訓練には力を注がざるを得なかった。そのために中央機器スタッフを年に一人、順番に放射線医学研究所の講習会に出席させ、翌年には放射線取り扱い主任者の資格試験を受験させた。その結果ほぼ全員が20%足らずの難しい試験に合格し、5人の有資格者を得た。アイソトープ関連実験室の使用は8〜20時となり、アイソトープ管理室が9号館8階、低レベル実験室に併設された。狭隘の施設ではあったが管理や教育訓練は充実するかに見えたが、他大学では相変わらず本音が先行し一般実験室でのアイソトープ使用が日常的であったために研究者からは本学の厳しさに批判の声が上がった。特にアメリカにおけるアイソトープの使用は自己責任として考えられ、その規制は非常にゆるく留学帰りの研究者からは怒鳴り込まれることが多かった。
1984年病院の本館立替を機に8号館が改装されことになり、アイソトープ研究施設が8号館2,3,4階に設置され、中央機器分析室から完全に分離された。

【ゲノム時代の到来】

1980年代後半に入り、DNAの研究が開始された。その結果、今までの中央機器分析室の守備範囲を一気に広げなければならない状況に陥った。PCR、DNA合成、DNA 抽出機、DNAシークエンサーの殆どの機器が時を同じくして設置された。スタッフが代替わりし、若手の経験の乏しいスタッフと共に、まったく新しい事に取り組まなければならず、意地とプライドで乗り切った時期である。タンパク質化学も分子生物学の範疇に入り、ペプチド合成、プロテインシークエンサー等の高額機器も次から次へと設置された。いずれの分析機も試薬がセットキットで販売され(DNA 合成キット30万円、プロテインシークエンサーキット30万円、ペプチド合成キット50万円等)、失敗が許されないオートメ化の機器との格闘に近い日々が続いた。外注がまだ一般的でなく、非常に高額であったために、我々への要求は高く、スタッフとともに苦難の日々が続いた。しかしながら、利用者は仕上がりが遅いことに焦れて、オペレーターの能力の問題だと考えている人が多く腹立たしい日々を送った。その上、共同研究にならない不満は常にあった。「誰がオペレートしても機械がやるのだから」との考えから、共同研究には及ばずとの考えが、誰とはなしに研究者間で話し合われ当たり前になっていった。配列によっては合成効率が下がり、副産物が多くなり、いわゆる出来損ないのDNAやペプチドも相当数あった。そのため、理由解明に試行錯誤する条件検討に費やした時間は大きかった。研究の場にあって依頼者からは一見ルーチンの簡単な仕事に見えるかもしれないが、各検体で異なり、同じ手法で合成してもうまく行かない場合がある。良い悪いのいずれの結果が出たにせよ、マニュアル通りやることはやったので結果は問えないと言う姿勢が許されるのならば、まさにルーチンワークとして考えられても致し方なかった。しかし、我々は一例ごとに問題点を明らかにする姿勢をとり続け、その過程がまさに研究であったことに一方的な研究者の姿勢不満に感じるとともに、機器を操作する側にリサーチマインドが無ければ本当の目的は達せられないと何度も感じた。

【再度、タンパク質の時代を迎えて】

1990年代に入りゲノムからタンパク質解析の時代が到来した。
ゲノム解析時代に発現したタンパク質解析の時代が必ず戻って来ると信じていたが、思いの他早くにその時代が訪れた。しかしながら、機器の開発は著しく手作業で何日も要したタンパク質の分離も数時間で可能となり、更には、ゲル上でタンパク分解酵素を作用させることができることを知り、まさに20年前のタンパク質化学が古典となったことを知った。
分析機器で可能な試料量もミリモル(10-3)からマイクロモル(10-6)単位の時代から、あっと言う間にピコモル(10-12)からフェムトモル(10-15)になった。タンパク質化学の基礎はかわらなったが、まさにはじめての機器に接し新たなる分野に臨む感がした。

【ABRFに参加して】

種々の分析機器が開発されると同時にコンピューターによるオペレーションからデータ解析が加速し、データの信頼性は機器本体とコンピューター操作上の問題を含むことが多くなった。利用者への指導に対するマニュアル作成に多大の時間を要するようになったのもこの頃であった。大型機器を利用して種々の解析を試みても「これでよいのか」と最終的にはいつも不安が残った。
質量分析計を用いてタンパク質解析を行なう時代に入り、アメリカの質量分析学会に出席するようになった。あるセッションでABRF(Association of Biomolecular Resource Facilities)の存在を知った。もともとタンパク質学会のサテライトミーティングとして開催されていたが、1990年前後に、バイオ関連の大学、研究所、企業の研究者や技術者が集まり学会に立ち上げた。目的は、モレキュラーバイオロジーの推進役であるハイテク機器における問題点を明らかにし、解析データの精度を上げ一般化することにあった。 我々がそれまで悶々としてきた問題点がフォーカスされており、帰国してすぐにABRFに入会した。

その後、ABRFからニュースが送られて来るうちに、モレキュラーバイオロジーに用いる分析装置に関する各リサーチ委員会が存在することを知った。各委員会は年1回、有志のメンバーに対して無記名の試験(トライアル)を課し、問題点をクローズアップさせ解決を図る試みをしていた。登録当時から我々はそのトライアルに参画した。ペプチド合成等では本学で利用者から希望されなかったリン酸化ペプチドの合成や環化したペプチド合成等新たな挑戦に出会った。
アミノ酸分析計もナノモルオーダー(10-9)のものを使っていたがそれでは到底太刀打ちできぬ微量分析を要求され、世界のレベルを肌で感じとった。そこで奮起してピコモルオーダー(10-12)のAQC アミノ酸分析方を確立するに至った。低分解能質量分析計によるタンパク質同定も困難を極め、一刻も早い高分解能機器を購入しなければ世界のレベルに追いつかないことを再確認した。それでも低分解能質量分析計の中では最高の成績を提示することができスタッフは自信をつけた。
ABRFへの参加はいかに我々の分析力に自信をもたらしてくれたかわからない。日本からのトライアルへの参画は殆ど皆無であった。即ち、日本においては研究者がすべてであり、研究を支援する立場の研究者・技術者を殆ど評価しない傾向にあった。したがって中央と名のつく部署はいくつかの大学に存在したが、それは管理担当者が所属する講座、研究室の拡大ポストに使われており、施設の充実や人材の育成を目指してはいなかった。したがって、かなり我流の使い方になり、担当者が変わればその能力が保持されないことが多かった。
結果的に、我々はハイテクききの操作上の問題から超微量タンパク解析までABRFを通じて多くの事を学んでいったといっても過言ではない。

【大学院共通教育コース】

1997年村山室長補佐が助教授に就任した翌春から、大学院の共通教育コース[遺伝子発現タンパク質解析法]を担当し、助手の協力で充実した実習を実施した。若干名の院生に対し8日間9:30より17時までの講義と実習のコースであった。それ以後、現在まで同コースは続いている。

【名称変更の動き】

1990年後半からプロテオミクス研究が盛んになるにつれ、講演依頼があったがそのたびに中央機器分析室の名称が実際の業務内容にそぐわず、名称変更を運営委員会で取り上げたが、当時の室長の賛同が得られずそのままとなった。
2003年10月大学の組織機構の改編により、中央施設が大学院医学研究科に所属する研究基盤センターに移行し、その名称を変更することができた。実に5−6年の歳月を要していた。

【室長】

2001年4月木南室長が医学部長就任にあたり村山室長補佐が室長に就任した。
兼務業務でない組織生え抜きの室長の誕生となった。

3)
大学院医学研究科 研究基盤センター・生体分子研究部門時代

生化学懇談会の30回に及ぶ議論から多くの事を学び、その後の中央機器分析室管理運営の基礎とした。驚くことに、1970年の関根教授、大家助教授の中央研究機構に対する考え方は35年たった現在も新鮮であり、脈々息づいている。
2003年、大学の組織機構改革に伴い中央機器分析室は大学院・医学研究科に所属する研究基盤センター生体分子研究部門として、重要な使命を帯び新たに船出した。〔2005年3月24日  室長 村山季美枝 記〕

附 1) 研究基盤センターの生い立ち


【室長及び室長補佐】

歴代室長

1970年 4月 1985年 3月    15年 寄生虫学講座 大家教授
1985年 4月 1991年 3月    6年 生化学第二講座 山下辰久教授
1991年 4月 1992年 6月    1年2ヶ月 脳神経内科講座 佐藤猛助教授
1992年 7月 1993年 10月    1年3ヶ月 皮膚科学講座 高森建二助教授
1993年 11月 2001年 3月    7年4ヶ月 生化学第一講座 木南英紀教授
2001年 4月 2003年 9月    2年6ヶ月 中央機器分析室 村山季美枝助教授
2003年 10月 2005年 3月    1年6ヶ月 生体分子研究部門   同上
2005年 4月 2011年 3月    6年間 生化学第一講座 上野隆先任准教授
2011年 4月 2012年 6月    3年2ヶ月 生体分子研究室   同上
2012年 7月 2014年 3月    1年9ヶ月   同上 上野隆教授
2014年 4月 2015年 3月    1年   同上 藤村務准教授
2015年 4月 2021年 8月    6年4ヶ月   同上 三浦芳樹講師
2021年 9月            同上 三浦芳樹准教授

歴代室長補佐

1970年 4月 1973年 11月    2年7ヶ月 中央機器分析室 村山季美枝〔技術員〕
1973年 12月 1976年 10月    2年11ヶ月   同上   同上〔助手〕
1976年 11月 1997年 7月    22年8ヶ月   同上   同上〔講師〕
1997年 8月 2001年 3月    3年8ヶ月   同上   同上〔助教授〕
2001年 4月 2003年 3月    2年   同上 進藤典子〔大学院講師〕
2003年 4月 2003年 9月    6ヶ月   同上 柳田光昭〔講師〕
2003年 10月 2004年 12月    1年2ヶ月 生体分子研究部門   同上
2005年 1月 2014年 3月    10年2ヶ月 生体分子研究室 藤村務〔准教授〕
2014年 4月 2015年 3月    1年   同上 藤村務(室長と兼務)
2015年 4月         同上 高ひかり〔助教〕
 


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